追憶の観世音-金丸鉱山
追憶の観世音-金丸鉱山
上ノ沢より見上げる金丸鉱山全景・1995年5月撮影。
まえがき
この狭い国土に律令国家が成立して現代に至るまでに開発された鉱山は、
個人で採掘した小規模なものまで含めると数千とも言われています。
人跡未踏の地でも鉱床が発見され、経済的価値が有ると判断されると
鉱山が開発されます。たとえ峻険な山奥でも人は富を求めて集まり、
集落や町を作り、鉄道と駅が作られ、主要な箇所は道路で結ばれます。
鉱山が他の業種と違うのは地下に埋蔵された「天与の富」
は有限で再生産はされず、採掘が続けば必ず枯渇します。
これを減耗(げんもう)資産といい、投資により増える資産とは異なります。
需給によって常に価値が変動し、掘り尽くすか不採算になれば閉山して、
人々は去り鉱山施設と集落は廃墟になります。
かつてこの国には鉱山が栄え、大勢の人々が鉱業に従事した時代が有り、
今では想像もつかないような山奥に人々の営みがありました。
これから紹介する鉱山も、沢の転石から偶然に鉱床が発見され、
豪雪地帯のため冬季は交通途絶する峻険な山中に開かれました。
〜鉱業の変遷〜
我が国における鉱物の大規模な利用は、
天平時代に国家事業として銅、金、水銀、錫の採掘より始まり、
戦国時代には銀を、江戸時代には銅を輸出するようになります。
明治以降は国家の近代化と富国強兵を支える主要な産業として、
当時の最先端の技術と人員、資本が投入され隆盛を究めました。
昭和に入るとエネルギー資源「石油」の需要が急増しますが、
国内生産では到底応えられず、一億人の国民が必要とする
あらゆる「資源」を求めて我が国は大戦に突入しました。
この世界大戦は「資源を持たざる国家が、資源を持てる国家」に、
”資源の確保””生存圏の拡大”を求めた争いでもありました。
戦争遂行の為、国内の鉱山は国家の統制下に置かれ、
採算を無視した乱開発と、探鉱を怠り、富鉱を掘り尽くした結果、
鉱利を損じ、更には労働者は徴兵され、資材と人員の不足で
疲弊した鉱業界には終戦時に老朽化した設備だけが残されました。
戦後は経済復興の為に国家が優先的に支援を行い、
探鉱、採鉱、選鉱、精錬における新技術の導入、
合理化もあって生産量も飛躍的に増加します。
好景気が追い風となって積極的な投資を行い、
鉱業界は1970年頃までの高度経済成長に貢献しました。
その後は貿易自由化、石油危機、長期不況などの社会情勢のために、
鉱業界の経営は急速に悪化します。
プラザ合意による1985年からの急激な円高の進行により、
鉱床規模と品位の劣る殆どの金属鉱山は国際的競争力を失い、
閉山が相次ぐようになります。
旺盛な国内需要に支えられた非金属鉱山は、
平成の半ば頃まで命脈を保っていましたが、
国内の製造業が海外に生産拠点を移したために需要が激減。
多くの鉱山で膨大な資源を残したまま、やむなく閉山し、
遂に我が国の鉱業は終焉に向かいました。
この鉱山も昭和~平成と社会情勢、経営状況の変化、技術革新により
採掘する鉱石の種類、採掘方法、鉱石の運搬方法が変わりました。
露天採掘場より鉱山施設を見下ろす。
左・谷間の左側が関川村立金丸小学校上ノ沢分校と集落跡地
「沈砂池」手前の赤い屋根の建物は山元事務所・休憩所・1989年10月撮影
右・閉山から13年後の草木に覆われた鉱山と集落跡地・2021年5月撮影
〜新潟県のある鉱山のお話〜
本当の話しでしょうか?
新潟県と山形県の山深い県境に、
かつてレアメタルと窯業原料を採掘し
「長石(ちょうせき)」の生産量日本一の鉱山が有り、
約百人程の人々が生活する集落が存在して、
そこに小学校と中学校があったことを。
想像できるでしょうか?
その鉱山は昭和の始めから平成の半ばまで、
70年以上も鉱石を産出し続け、食器、タイル、
碍子、ガラス等の原料となって人々の生活を支え、
この国の経済発展の一翼を担ったことを。
30年以上も昔に、私が働いた在りし日の金丸鉱山
を知っていただきたくてこのページを作りました。
故加藤所長には鉱山に関する様々な事柄を教えていただき、
その時の覚え書を編集してこのページを作りました。
穏やかで実直なお人柄が今でも偲ばれます。
私の大先輩でもあり、当時カナマル株式会社の佐々木社長には
金丸鉱山の貴重な写真や図面・資料を頂戴し、
沿革、鉱床についてもご教示いただき感謝の念に堪えません。
ありがとうございました。
※佐々木社長は2022年7月に95歳で逝去されました。
鉱山に入坑する際に、必ず「山の神様」に脱帽して坑内作業の無事を祈願することを入社早々に教えてくださいました。
自然相手の鉱業には危険が付き物で、鉱況も予測がつきません。突然の天然ガスの噴出で坑内火災が発生したり、
今日完成した支保が、翌日には地圧で変形していることも有れば、優良な鉱脈が突然途切れることも有ります。
私達鉱員は「山の神様」の機嫌を損ねないようにするのが習わしでした。
佐々木社長は鉱山を取り巻く自然に常に畏敬の念を抱かれ、大地から生み出される”鉱床”を確かに愛していました。
海外の文献を熟読し、鉱床規模の違いはあれど、この知識を我が国の鉱床探査に用いました。
山形県睦合鉱山で当時の常識に反し、深部よりも地表部の探鉱を積極的に行い、自然金が主体の鉱脈を発見。
閉山の決まった愛媛県大久喜鉱山で立入れを実施し、キースラガーの大鉱床を発見。鉱山の寿命を3年伸ばしました。
島根県鰐渕鉱山では発破の炎が噴出した天然ガスに引火、仲間は亡くなりましたが、佐々木社長は九死に一生を得ました。
佐々木社長は「山の神様」に愛された方でした。
鉱山で共に働いた在りし日を偲びつつ、佐々木社長のご冥福を心よりお祈りいたします。
坑内採掘の頃から金丸鉱山での仕事に携わった関係者は私一人になってしまいました。
秋田鉱山専門学校校歌「天与の富」
一番
天与の富はうずたかく 地下の宝庫に積まれたり
扉開きて埋もれたる 無限の富を掘り出でん
我等が業は昔より 国の力の源ぞ
我等が業はとこしえに 国の栄えんもとなるぞ
二番
世に隠れたる鉱脈も 人に知られぬ炭層も
みがける知恵の光明に 照らさば遂に護らる可し
我等が業は日に月に 文化と共に開け行き
我等が業は極みなく 人智につれて進み行く
金丸鉱山位置図
左下にJR米坂線「越後金丸駅」、右上に金丸鉱山
金丸(観世音)鉱山は新潟県関川村と山形県小国町との県境に位置し、
推定埋蔵鉱量約2百万トンを越えて本邦第1位の埋蔵規模を誇り、
石英を殆ど含まないペグマタイト鉱床で主に「長石」を採掘していました。
他の地域のペグマタイト鉱床と大きく異なるのは文象構造を欠き、
晶洞は無く、白色の石英のみで、自形の水晶は産出しません。
鉱山に行くには、JR米坂線越後金丸駅前の国道113号線を坂町方面に向かい、
荒川を右手に見ながら走行。八ツ口のトンネルを抜けて上ノ沢の橋を渡ると、
直ぐ右に舗装道路が見えます。ここが金丸鉱山に至る道路で上ノ沢に沿って、
舗装、砂利道を進むこと約5Kmで鉱山跡に至ります。
左・金丸鉱山の諸施設・1995年撮影
右・鉱山施設平面図
沿革
※戦前~昭和21年(1946年)までの沿革と補足説明は、休廃止鉱山調査家Yさんから提供して戴いた資料を基に作成しました。
岩生周一氏の調査報告と入手困難な戦前の資料等は始めて見る物ばかりで、Yさんは丁寧に説明を付けてくれていました。
時の経つのも忘れて読み耽り、読む度に観世音鉱山についての新たな驚きと感動が沸き上がりました。
この場を借りてお礼申し上げます。
減耗(げんもう)資産を採鉱する鉱山の盛衰は人間の成長過程のように大きく4つに分けることができます。
黎明期:鉱床が発見され開発が始まったばかりで鉱量の把握も充分でなく、積極的な設備投資も未だ行われません。
成長期:投資が実を結び生産量も増え、既採鉱分を補うために積極的な探鉱を行い、次々と新鉱体が発見され需要に応えます。
成熟期:需要はあるものの新たな鉱体は期待できず、鉱量算定は終了し鉱床の価値が確定。設備投資を控え既存鉱体の採鉱に専念します。
衰退期:富鉱を堀り尽くしたために採鉱コストが嵩むようになり、閉山を視野に入れ償却の終わった設備で生産を行います。
金丸鉱山も多くの鉱山と同じような
過程を辿りました。
~黎明期~
昭和7年(1932年)頃?
新潟県関川村(旧女川村)上ノ沢(下ノ沢)?流域で「光る石(モリブデン鉱又はタングステン鉱)」が発見される。
※この付近の鉱山は下ノ沢、女川流域に集中していることから最初の鉱石発見は下ノ沢かもしれません。
昭和21年(1946年)の岩生周一氏による調査報告では、「此の鉱山は約30年前に重石を産する山として発見され・・」と記述されていることから、
発見は明治時代後期~大正時代まで遡る可能性が有ります。
昭和11年(1936年)11月
横浜市の三河内某により「金丸鉱山」として新潟県試掘権登録が設定される。
昭和14年(1939年)4月
東京市の宮田友二他一名により新潟県試掘権登録が設定される。
この年と翌年に「観世音鉱山」として重要鉱物探鉱奨励金交付指令鉱山となる。
※鉱床発見は観世音菩薩の導きによるものだということで、観世音鉱山と名付けました。
この「観世音鉱山」は「長石」採鉱の「金丸鉱山」とは山の裏側になります。
鉱山開発者で広島県出身の宮田友二氏は白馬に跨り、八ツ口、金丸の集落を闊歩していたそうです。
金丸鉱山の協力会社・八ツ口の羽田土建粂太郎社長曰く、子供心にも「颯爽としていて憧れだった」
一山当て、政府からの資金支援も取り付け「我が世の春を謳歌」していたのでしょう。
これといって産業の無い山奥の集落に鉱山での雇用を生み出したのは氏の功績です。
昭和16年(1941年)頃
宮田友二他一名により新潟県採掘権登録が設定される。
※「試掘権」の期間中に商工省の支援で探鉱を行い、有望と判断されたのか「採掘権」が設定されました。
昭和22年の岩生周一による調査報告では「観世音鉱山の最盛期は昭和16年前後であって、
WO3 60~70%の鉱石(精鉱)年産5~10t、MoS2 70%の鉱石(精鉱)が年産20tに達した」と記載されています。
興味深いのはタングステン鉱石よりもモリブデン鉱石(輝水鉛鉱)のほうが多く産出していることです。
※「金丸鉱山」採掘場に隣接した水鉛沢にはモリブデンの鉱石(輝水鉛鉱)が産出します。
この水鉛沢を少し登った右側斜面に坑口が在りました。
我々鉱山関係者は"水鉛沢の採鉱地は宮田友二の観世音鉱山"と呼びならわしていました。
ここは細粒黒雲母花崗岩を貫く脈状ペグマタイトに伴うもので鉱体規模が小さく、
モリブデンの採鉱は長続きしなかったようで、試掘で終わった可能性も有ります。
観世音鉱山は水鉛沢と、山の裏側、長谷沢の2ヵ所に採鉱地が有りましたが、
タングステン鉱に関しては長谷沢が主力採鉱地で、比重選鉱設備を備えていました。
※1990年頃の水鉛沢にはモリブデンの試掘・採鉱跡がいくつか残っていました。
殆どが金丸鉱山の1号坑、3号坑、露天採掘場からのズリで埋まってしまいましたが、
川底の転石を探すと、酸化鉄で茶色く変色した石英中に輝水鉛鉱を見る事が出来ました。
左・金丸鉱山産のカリ長石・1989年採取
右・水鉛沢で拾った条線の見える観世音鉱山産の輝水鉛鉱。茶色く変色した石英と共生していましたが、
苔を落とすために水洗いをしたら輝水鉛鉱だけが外れてしまいました。
大きさ、厚み、質感共にかなり立派な輝水鉛鉱です・1989年採取
昭和16年(1941年)~昭和17年頃?
大切坑(おおぎりこう)掘進の際にペグマタイト脈を発見。
※鉄重石は不老峰(標高730m)近くの尾根を越えて上ノ沢まで簡単な索道と人力で
運ばれていましたが、「重石」というだけあってとにかく重くて大変でした。
そこで効率良く搬出するために長谷沢から上ノ沢まで、山を貫通する大切坑(おおぎりこう
・鉱山で最下部に位置する坑道。運搬や排水などにも使われる)の掘進を始めました。
その際、ペグマタイト脈を発見したと聞いていますが、当時は軍需物資のタングステン、
モリブデン鉱の採鉱に重点がおかれ、政府も積極的にこれらの金属資源採鉱に支援を行っています。
大切坑口の沢は観世音沢と呼ばれています(鉱山施設図参照)が、観世音鉱山に通じているからなのかは不明です。
昭和17年(1942年)
軍需特殊金属のタングステン原鉱開発のため帝国鉱業開発株式会社の受託経営となる。
※鉱山開発には資本が必要で、低品位鉱石や運搬費用のかかる山間僻地の
鉱床の開発には、採算性を重要視する民間企業は参入しません。
しかしながらこの頃の日本は戦争遂行に必要な銅・鉄・鉛・亜鉛・錫・石炭・
マンガン・タングステン・モリブデンなどの鉱物資源を確保するため、採算を度外視した
資源開発を行う戦時国策会社の「帝国鉱業開発株式会社」が昭和14年に設立されます。
その一方で、政府は不足している資源を輸入で補うため、民間には鉱物輸入決済のための
「金」の増産をその前年から奨励しました。
金鉱山開発には奨励金交付、機械類の無料貸与など他の鉱種の鉱山よりも優遇されました。
しかし大東亜戦争開戦により輸入が困難になると、1943年には一転して金鉱山の資材・労力を
他の鉱山に振り向けることにし、銅の精錬に必要な含金珪酸鉱を産する一部の金鉱山を除き、
ほぼ全ての金鉱山は閉山となりました。これを「金鉱山整備令」といいます。
戦線の拡大に伴い国内の殆どの鉱山の操業権は「帝国鉱業開発株式会社」に移されました。
1943年 商工大臣 岸信介 “鑛山戦士に告ぐ”
「ここにおいて政府は一大英断をもって国内の全金山を閉止し
金山における産業力をもって銅、鉄、石炭などの大増産に
即時転換せしめる決意を固めるに至った」
鉱山経営が「経済」ではなく、「国家の意思」に翻弄された時代でした。
昭和19年(1944年)
帝国鉱業開発株式会社の受託経営を解除される。
※鉱量が少なく、今後の増産も期待できないことから帝国鉱業開発株式会社が撤退し、
鉱況悪化と資金難、戦争による物資不足と鉱山最大のピンチを迎えます。
おそらくこの頃、大切坑で見つかったペグマタイト脈をタングステン鉱石を目的として探鉱坑道を
掘進した際、「長石」が主体の厚レンズ状ペグマタイト(最大幅6m、延長60m程度)を確認します。
不老峰(標高723m)南東斜面の露頭は、坑内でのペグマタイト発見後に地表探査を行い露頭を発見したと聞いています。
前記、岩生周一氏による調査報告では「長石鉱床は昭和19年偶然発見されたもの」であり、
「問題のペグマタイトは二ヶ所で確認されていて、大切坑内と是より南方150米上方(不老峰・標高723mの南東斜面)の所謂露頭である」と記載されています。
昭和20年(1945年)
大東亜戦争終戦
昭和21年(1946年)8月
商工省技官・岩生周一氏が長石鉱床調査の為に来山
※鉱山としては長石鉱床に期待し、商工省に調査を依頼したようです。
しかしながら調査報告は、「12月~4月を除く馬車道による40~50t/月の運搬に難が有り。
索道を架設すると1500t/月程度の出鉱は可能だが、大切坑内と露頭との連続が確認できない状況で大規模な採鉱法を採る事は危険である。
長石は品質概ね良好なるも、窯業原料として鉄分含有量に慎重な吟味を行う事。
立入れ坑道で探鉱を行い大切坑内と露頭の連続を確認するように」といった内容でした。
鉱量を把握するまでは初期の過大な投資に慎重になるように、とのことなのでしょう。
しかし翌年、宮田友二氏は一世一代の大勝負に出ます
採掘対象の鉱種の変遷
鉱石名 | 有用元素 | 採掘場所 | 採掘期間 | 主な用途 |
輝水鉛鉱 | モリブデン Mo | 水鉛沢 | 1941年~1944年 | 工具用の合金鋼、潤滑油 |
鉄重石 | タングステン W | 長谷沢 | 1941年~1944年 | 銃身、砲弾、工具用の合金鋼 |
正長石 微斜長石 | カリウム K、ナトリウム Na アルミニウム Al | 不老峰南東斜面 | 1947年~2008年 | 陶磁器、ガラス |
石英 | 酸化ケイ素 SiO2 | 不老峰南東斜面 | 1947年~2008年 | 陶磁器、ガラス、半導体 |
~成長期~
昭和22年(1947年)
「長石」採掘を始めるも資金難のため、宮田友二氏は上京して安田信託銀行の頭取と直談判。
安田信託銀行から3千万円の融資を受け新会社設立へ
※宮田友二氏は融資の話が進むうちに頭取と賭けをして、「酒を一升飲み干すと1千万円、
結局、三升飲んで3千万円の融資を受けた」という武勇伝が鉱山に伝わっています。
酒を一人で三升も飲める筈もなく、いくら戦後の混乱期とはいえ契約が酒席で行われ、
融資金額が宮田友二氏の胆力で決まったとは考えづらく、当時は鉱量も未確定です。
おそらくは宮田友二氏が熱く語る「鉱床の将来性」が評価されたのでしょう。
この話の真偽がどうであれ、豪胆な人柄であったようです。
戦前は政府からの資金と物資支援を取り付け、戦後は金融機関から巨額の融資を得る手腕は
並大抵ではなく、金丸鉱山の生みの親ということもあり興味深い人物です。
昭和24(1949年)
日本窯業化学㈱を設立し上ノ沢鉱業所(「金丸鉱山」)を開設、露頭部の露天堀りから始まり、
直ぐに1号坑での採掘へ(当時は大型重機も無く、表土の除去、運搬が困難だったため)。
この年の11月には上ノ沢鉱業所~選鉱所(越後金丸駅に隣接)4,650mの架空索道
(安全索道株式会社・Ansakuにより建設)が開設。
※戦争中に疲弊した鉱業界は国家の支援策も有り、徐々に戦後の復興を始めていましたが、
その足取りは鈍く、多くの鉱山で積極的な設備投資を控えていました。
その中、4,650mの架空索道の建設は、鉱業界では当初は驚きの目で見られていたようです。
索道会社の多くは戦前はロープウェイなどの観光用から、戦時中は運搬用の重要機械の製造事業者
として優遇措置を受けていましたが、終戦後は経営環境が一変、厳しい経営を強いられていました。
翌年の朝鮮戦争が契機となり、鉱業界に空前の好景気が到来し、鉱石運搬用の架空索道の需要が急増。
国内の索道会社は経営を建て直します。
程なくして余暇を楽しむ時代が到来し、索道業界は観光用ロープウェイ、スキー用リフトなどの需要増に応えます。
昭和25年(1950年)
朝鮮戦争勃発によりタングステン市況高騰。
戦前にタングステンを採掘していた観世音鉱山より鉄重石の残鉱を回収。
その頃、鍋倉鉱山(村上市)を150万円で買収し支山とするも、その後鉱況悪化により150万円で売却。
以降金丸鉱山は現在の採鉱地で「長石」、珪石のみの採掘となる。
「長石」鉱床の西側には莫大な量のアプライト(半花崗岩)が賦存するも、
消費地から遠いため、採算性を考慮して稼行対象とはならず。
※タングステンは特性上、特殊合金としての需要があり重要な軍需物資です。
「東洋の金属」と呼ばれるように東アジアに偏在し、当時の主な産地は日本、朝鮮半島、中国です。
戦争で必要な金属の産地が戦場になったのですから需給バランスが崩れ”大高騰”しました。
タングステン精鉱(WO3 65%)が当時の価格で100万円/t 強という鉱業界伝説の高価格を記録します。
当時金丸鉱山の従業員は女性も含めて総出でタングステン鉱石を集めたそうです。
主な採鉱地は観世音鉱山で、1km近い大切坑道を通り抜け、終戦で休山した採鉱地で
人海戦術により、かつては見向きもされなかった低品位鉱や、選鉱の片刃まで採取対象になりました。
この話を聞くと観世音鉱山を今訪れても鉱石採取はあまり期待できないような気がします。
1950年代の統計資料で金丸鉱山のタングステン生産量は、殆どが観世音鉱山からの産物です。
※アプライトは重要な窯業原料で、消費地に近い中部地方以西では盛んに稼行されていました。
この不老峰西部のアプライト帯には、「長石」を主体とする複数の大小ペグマタイト脈が有ります。
中でも最大の不老峰長石露頭と本鉱体との連続性を確認するため、2号坑より立入坑道
(たていれ・探鉱のための坑道)を掘進するも、鉱体は連続せず、不老峰露頭は独立した
衛星鉱床であることが確認されました。
長石は陶磁器とガラスの主な原料の一つで、長石のアルカリ成分(K₂O+Na₂O)は焼締まりを良くし、
溶融温度を下げ、製品を透明にするなどの優れた特徴を持っていて欠かせない原料です。
鉄分(Fe₂O₃)が少なく、アルカリ成分(K₂O+Na₂Oアルカリ)を10~15%含んでいるものが利用されます。
成分別長石の用途
グレード | 鉄分Fe₂O₃% | アルミナAl₂O₃ % | アルカリR₂O% | 主な用途 |
特選 | 0.3%以下 | ― | ― | 白色うわ薬用 |
1級A | 0.5%以下 | ― | ― | 一般うわ薬・白生地用 |
1級B | 0.5%以下 | 18%以上 | 10%以上 | 板ガラス用 |
2級 | 1.0%以下 | ― | ― | 一般生地(素地)・ガラス用 |
3級 | 1.0%以上 | ― | ― | ほうろう鉄器用 |
〜鉱山の思い出話①-不老峰露頭の再発見〜
この不老峰露頭はカナマル㈱佐々木社長が鉱専の地質実習時に、腰かけておにぎりを食べたと聞いていました。
多くの鉱山関係者が退職し、長らく場所が不明になっていましたが、佐々木社長の「眺めが良かった」をヒントに
灌木をかき分けガレ場を登攀し、何度も探索してようやく探し当てた時は感慨深いものがありました。
場所により白雲母がかなり付着していますが、石英を殆ど含まない「長石」の露頭で、周囲を
試掘をした形跡がありました。佐々木社長からは何度も「あんたが発見した露頭だよ」と言っていただき、
鉱山会社に入りたての若輩者としてこれほどうれしい誉め言葉はなく天にも昇る気持ちでした。
露頭の再発見は平成元年6月、梅雨の晴れ間の蒸し暑い日のことで今でも鮮明に覚えています。
探索中はヒメサユリが上ノ沢から不老峰にかけての山肌にあちらこちらで咲いていました。
左・昭和38年当時の地形及び地質図
1967年地質調査所月報18 上野三義
「新潟県金丸鉱山のペグマタイト鉱床について」より抜粋
右・倒壊した3号坑(470m )建屋・1995年撮影
〜鉱山の思い出話②-論文執筆者との出会い〜
当時、金丸鉱山の仕事をする際に上記の論文が読みたくてあれこれ手を尽くし、
やっと探しあてた閲覧場所が、栃木県益子の窯業試験所と国立国会図書館。
それが今では簡単に閲覧できるのです。ネットは本当に便利ですね。
上野三義氏はこの頃、島根県の関連会社が登記した新会社の顧問をしておられました。
東京本社でお会いした際に、ご本人にこの資料を差し出すと「懐かしいね」と言いながら
喜んでいただき、鉱体の下部延長に興味を示され4、5号坑開発に関して質問されました。
私が緊張して話す金丸鉱山の現況を、目を細めて終始笑顔で聴いておられたのを
今でも思い起こせます。
昭和39年(1964年)
共立窯業原料(現・共立マテリアル株式会社)が日本窯業化学㈱を買収。
※名古屋方面の陶磁器メーカー以外にも、東日本各地に板ガラス、光学ガラス、
碍子などの原料を供給していましたが、森村グループの傘下に入ったことにより
グループ内の陶磁器メーカーにも「長石」、珪石を販売するようになり販路拡大。
高度成長期に入ったこともあり、需要増に応えるためにこの頃に積極的な探鉱を行いました。
周辺には大規模な鉱床を発見出来ないものの坑内試錐により下部への鉱体延長を確認。
宮田友二氏は一世一代の大勝負に勝ったのです。
この成果は後に4、5号坑(シュリンケージ採掘)の開発に繋がります。
この頃より昭和49年(1974年)までの10年間は年間生産量が2万トンを越え鉱山の最盛期を迎えます。
左・昭和38年当時の鉱床断面図 右・坑内透視図
1967年地質調査所月報18 上野三義
「新潟県金丸鉱山のペグマタイト鉱床について」より抜粋
鉱山の各坑口のレベルと鉱体の拡がりは以下の通り
坑口レベル | 北東-南西方向 | 北西-南東方向 | 鉱床面積 | 珪石+アプライト面積 | 長石面積 |
露頭 550m | NE-SW 50m | NW-SE 25m | | | |
1号坑 530m | 同上 40m | 同上 90m | 2548㎡ | | 2548㎡ |
2号坑 500m | N10°E 90m | N80°W 180m | 8350㎡ | 1090㎡ | 7260㎡ |
3号坑 470m | 同上 110m | 同上 260m | 17160㎡ | 3070㎡ | 14090㎡ |
4号坑 435m (坑口が無い水平坑道) | 同上 70m | 同上 170m | 7940㎡ | 1450㎡ | 6490㎡ |
5号坑 405m | 同上 90m | 同上 180m | 7300㎡ | 2430㎡ | 4870㎡ |
大切坑 385m (坑口を閉塞して貯水、選鉱用水へ)
| | | | | |
※鉱体は標高550m付近に露頭が有り、標高600mの山峰を越えて西に
約20°の傾斜で、沈み込むように拡がっています。
鉱床断面図、坑内透視図と上表から、2号坑~3号坑付近で最も膨らみ、
品位、鉱量ともに富鉱部を形成していることが分かります。
鉱体の形状は”胃袋状”又は”ラグビーボール状”とも形容されています。
5号坑から2本の坑内試錐により45m下部まで鉱体の延長を確認していて、鉱量、
品質の確定には更に数本の試錐探鉱が必要ですが、実施されないまま閉山になりました。
1~5号坑の間隔は標高差で約30m、鉱山での採掘は基本的に下から上へ向けて削岩して発破。
鉱石は自重で下に落ち、最下部の坑道に待機したトロッコに積まれて坑口へ。
坑内に湧き出る水もやはり一番下の坑道へ。
この最も低いレベルに有る坑口を持った坑道を「大切坑」と言います。
5号坑が金丸長石鉱山の大切坑です。
両端が外部に開口していて、運搬、排水などの目的に使われている主要な坑道を通洞(つうどう)と呼びますが、
昭和12年(1937年)に掘削された上記「大切坑」は観世音タングステン鉱山の「通洞」でもあります。
長石を採掘する金丸鉱山になってからは、坑口を閉塞して貯水、選鉱用水として使用されていました。
※長石、石英中の鉄などの金属成分は窯業業界では嫌われます。
鉄分が多いと焼成の際に茶色くなり、白い製品が出来なくなります。
それ以外にも金属は導体のため、絶縁性が要求される碍子(がいし)には使用出来ません。
坑内で時折産出される、タングステン、モリブデン鉱は、5号坑口から出て通常の小割、
水洗(大切坑湧水)の工程に進む前に大切坑横のズリ捨て場に直行します。
左・掘進から約80年後の観世音鉱山大切坑と流れる豊富な湧水。
この坑道は堅固な花崗岩を掘り抜いているため支保はされていません。
私の在職中は岩壁の白くなっている高さまで湧水が貯水されていて入坑は不可でした。
この坑道は現在は崩落していて観世音鉱山に通じていないと思われます。
坑道の中程で酸欠になった方々がいるので入坑は危険です・2021年11月撮影
右・大切坑口横のコンプレッサー室。 削岩機、鉱石積込ローダーなど
鉱山機械は圧縮空気が動力です。・2021年11月撮影
~成熟期~
昭和42年(1967年)
羽越豪雨(うえつごうう)で生産設備に壊滅的打撃を受ける。
(㈱共立窯業原料50年史に被害状況の詳細記載)
木造の山元事務所、索道支柱も土砂崩れ等により倒壊。
※耐久性に優れた鉄筋コンクリート造にするため、当時の村上市役所の建築図面
を借りて二階部分までを山元の作業員だけで建築。
かなりの支柱が被害を受けて運行不能だった索道も復旧し、ようやく採掘、販売を再開。
その後、5号坑から下部の6号坑、7号坑への開発を計画しましたが鉱体下部は、
「長石」よりも珪石の割合が増えるため、「長石」の品位(アルミナ、アルカリ分)
が低下する傾向が有り、更には鉄分(黄鉄鉱)も増加し品質低下の恐れと資金難、
「長石」販売量の減少(昭和49年以降)もあり鉱体下部の開発を断念します。
「長石」は金属鉱物と違い、相場に左右されない比較的安定した鉱石価格ですが、
長引く景気の低迷、輸入長石の台頭による販売量の減少と羽越豪雨災害からの
復旧借入金が重荷になり赤字体質が続きます。
左・露天採掘場から見下ろす5号坑
ホッパー上部の開口部はかつて3号坑からの鉱石を索道で受け入れていました・1995年5月撮影
右・水害後に鉱員だけで再建された山元事務所・休憩所・1995年5月撮影
昭和50年頃?
索道を廃止して、山元から選鉱場までのダンプ輸送に切り替える。
※鉱山の最盛期を過ぎたことにより、年間生産量が半分の1万トン強にまで減少。
運搬能力120トン/日の索道設備は過剰になり、維持費もかかることから
索道からダンプ輸送に転換しました。採掘を行う作業員とその家族は減少し、
残った作業員も麓から車で通うようになり金丸小学校上ノ沢分校は閉校へ。
左・越後金丸駅に隣接した貯鉱場
奥は採石会社のプラント・1995年撮影
右・越後金丸駅に隣接した貯鉱舎・2021年撮影
昭和59年(1984年)
株式会社昭和鉱業(現昭和KDE)に経営権が移り、カナマル株式会社になるも販売先は同じ。
※昭和鉱業に経営権が移り、開発で最初に着手したのは国道113号線から採掘場の山裾に至る、
運搬道路の拡幅でした。特に長石橋~イタドリ沢、越戸断層、ダラダラ坂~採掘場までの区間は
峻険な地形で、山肌の傾斜は40°を越え、上ノ沢が深い浸食谷を造っていて交通の難所でした。
索道の廃止時期に開削された道路は2トン以下のダンプがようやく通行できる道幅しかなく、
交差場を設けるには適さない地形のため、運搬ダンプの通行台数には限界がありました。
堅牢な花崗岩地帯を開削する場合、通常はクローラードリルで穿孔、発破を最初に行い、
重機で破砕された岩石を除去しますが、発破は準備作業も含めてかなり時間を要します。
この時用いられた開削工法では、系列の栃木県・昭和関白鉱山から油圧ブレーカーと
ユンボ、オペレーターの技術支援を受けて限られた工期の制約下、直ちに工事に着手、
業界関係者の多くが懐疑的な中で、発破に頼ることなく極めて短期間で工区開削に成功しました。
断崖で作業するオペレーターの眼下には、遥か谷底に渦巻く上ノ沢の渓流、
旋回するユンボのボディが岩壁にぶつかると転落の危険が有り、慎重に作業を終えて
ユンボから降りてきたオペレーターの脚はガタガタ震えていたそうです。
左・イタドリ沢、関川村刊行の「2003 関川村 山岳・渓流地図」によると
”鉱山の近くにある沢ですので、支保工用の板を切り出した沢であろうと思われる”
と解説されています。・2021年撮影
右・イタドリ沢を過ぎると「ダラダラ坂」の緩やかな坂道
日本窯業化学㈱時代のW所長はあちこちの沢などにユニークな名称を付けています。
小さい沢には「一杯清水」など・・この坂の名称もそのうちの一つ・2021年撮影
左・ダラダラ坂~小長沢~ミツギ沢の区間は急傾斜の山肌が続く・2021年撮影
右・舗装道の終点、小長沢と上ノ沢の合流地点・2021年撮影
昭和63年(1988年)
索道のワイヤーを切断し回収。
国道113号線横の1号鉄製支柱を撤去。
※索道の老朽化が進み、木製の支柱の多くが傾き、米坂線と国道113号線を跨ぐ
索道のワイヤーが垂れ下がる危険が有るために切断、撤去しました。
今では木製の支柱は全て朽ち果て、八ツ口の2号鉄製支柱のみ現存しています。
索道のワイヤー(主索)を切断することにより電話線も不通になりました。
この電話線は山元と越後金丸駅選鉱場・事務所を結ぶ唯一の通信手段です。
電話といっても鉱山施設内のみの電話で、黒電話の横のハンドルを回して相手を呼び出します。
比較的簡単な設備で済むので、鉱山だけでなく、鉄道、工場など広く使われていました。
電話線切断後は「業務用無線」を設置して連絡手段にしましたが、山深いために平成以降も
携帯電話が使える環境にはなく、この「業務用無線」が閉山まで唯一の通信手段として使用されました。
2021年現在でも金丸の山中では携帯電話は圏外です。
八ツ口に現存する2号鉄製支柱・2021年撮影
※この頃から5号坑の鉱石に鉄分が多く含まれるようになり品質が低下しました。
そこで良質な鉱石が残っている4号坑でも採鉱しました。
4号坑は坑口が無い坑道で、このような坑道を盲(めくら※今では差別用語です)
坑道と言います。坑口が無いので4号坑に 行くには、5号坑から採掘の終わった
空間に梯子を設置して約30m昇ります。4号坑で採掘された鉱石は先程の5号坑の
採掘済みの空洞に落とされ、下部の 穴から抜き取られ、バッテリー走行の
鉱石運搬貨物列車に積まれ5号坑口へ。
そこでは線路の横に大きな穴(ホッパー)が有り鉱石は貨車からそこに落とされます。
鉱石は斜面(インクライン)を移動して下の選鉱場へ。
大きな塊は小さく割られた後に水洗(大切坑の湧水)してダンプに積まれます。
越後金丸駅に隣接した選鉱場に運ばれた鉱石はベルトコンベアーに載せて運ばれ、
作業員の手によって(手選、ピッキングともいう)、「長石」、珪石、ズリに分けられ
品質を向上させて出荷されます。
左・崩落した5号坑口とバッテリー運搬車とレール
左上に「蓄電池式機関車軌道始点」と書いています・2021年11月撮影
右・5号坑下の貯鉱場から選鉱場へ小割りされた鉱石を運ぶインクライン(斜坑)
ケーブルカーのように箱車が軌道上を移動します・2021年11月撮影
〜鉱山の思い出話③-消えるカンテラ〜
坑内ではカンテラが必需です。大学の実習で訪れた鉱山は全て充電式の電灯でしたが、
金丸鉱山で始めてアセチレンガスのカンテラに出合いました。
腰にタンクをぶら下げ、ここにカーバイト(炭化カルシウム)を入れ水を加えると、
アセチレンガスが発生します。これに石を擦り合わせるライターの点火具で着火させます。
坑内はあちこちで天井から水滴が落下していて、この水滴がカンテラの炎に触れると・・・消えます。
慣れた採鉱員は手早くポケットのライターで再着火させるか、近くの同僚から火を貰います。
その時は甘く考えていました。切羽から離れた5号坑の引立(ひったて・坑道の最奥)に居たのです。
辺りは漆黒の闇・・・
聞こえるのはかなり遠くの作業音、坑内の水滴の音、アセチレンガスの独特の匂いだけ・・・
私はタバコを吸わないのでライターを持参せず、手探りで壁を伝い、「作業音」の聞こえる
方向に歩きますが、気持ちばかりあせって何度もつまずき、この時間が恐ろしく長い・・・
なかなかの恐怖です。ようやく切羽の採鉱員に助けてもらいましが、それからは小さい
懐中電灯をポケットに常備するようにしていました。
その時の恐怖から、結局4号坑には行けずに今に至ります。
左・大切坑の入口、左側がコンプレッサー室・2021年撮影
右・中央の階段を昇ると左側は5号坑口、右側は鉱石投入ホッパー・2021年撮影
左・鉱石投入ホッパー。貨車からホッパーへ投入された鉱石は
グリズリーバー(篩格子)を通過後、一時貯鉱場へ・2021年撮影
右・倒壊した山神社から観世音沢向かいの5号坑を望む。
我々鉱員は、入坑の際は必ず手を合わせ、安全を祈願して
から採鉱をしていました・2021年撮影
平成元年(1989年)
坑内優良鉱の減少、坑内環境の悪化と合理化のため露天採掘に切り換える。
※出勤すると5号坑口に積んであった古新聞の束が外に吹き飛ばされていた事が有りました。
坑内空間が崩落し、その際に空間内の空気が押し出されたものと推定されました。
4号坑の残鉱を採掘するということは、天盤を支える竜頭(りゅうず・坑道保護の為に残す鉱柱のこと)
も採鉱の対象にすることです。
地表部の陥没も進行していて、保安上の理由からも露天採掘への移行が急がれました。
左・貯鉱場と大切坑からの豊富な湧水を使用した選鉱場、
水洗後の小さい長石、珪石、ズリが堆積しています。
これらは林道の敷石に使用されました・1989年撮影
右・露天採掘場、索道の上部鉄塔が見えます・1989年撮影
左・露天採掘開始頃の切羽(きりは)・1989年撮影
右・露天採掘開始当時は坑内空間の崩落により地表部が陥没、
鉱体が露出し表土の除去は比較的容易でした・1989年撮影
※露天採掘場までのダンプの通行出来る道路は建設にコストと時間が
かかる上に当時の生産量では、索道による運搬だけで充分でした。
そこで人力で資材を600mレベルまで運んで簡易索道を設置。
鉄塔の基礎となるセメント、鉄骨などを小分けして運搬し、
上部鉄塔とアンカーを建設。対になる下部鉄塔との間にワイヤーを張り、
巻き上げ機を設置すれば本格的な索道の完成です。
続いて採掘に必要な大型重機(ユンボ)を解体して索道で露天採掘場
に運び、再び組み立てた後に採鉱となります。
露天採掘場(535mレベル)より選鉱場下の貯鉱場までこの索道
(上部鉄塔585m~下部鉄塔348m)で搬出。
そこから4トンダンプで越後金丸駅横の選鉱場まで運搬。
〜鉱山の思い出話④-粂太郎さんのこと〜
索道の基礎工事開始日はかなり暑い日で、私は所要があり羽田土建粂太郎社長と作業員が先に露頭に。
八ツ口の羽田土建粂太郎社長は鉱山に関して何でも知っていて生き字引のような方です。
この方なら索道の廃止時期を知っていたかも知れませんが・・・今では悔やまれます
さて、昼近くに山元事務所に戻ると無線機から粂太郎さんの「水!水をくれ~」の悲痛な声が。
水筒を忘れて炎天下で早々にダウンしたそうで、かれこれ1時間近く無線で呼び出していたのだとか。
事務所に下りるとまた現場まで戻らなければならないので、現場死守の方針に徹したとのこと。
山元事務所にあった空の一升瓶2本に水を入れ、急いで現場に向かうと日差しを遮るものが何もない
すり鉢状の陥没穴に粂太郎さん他数人が息も絶え絶えにうずくまっていました。
差し出した一升瓶を回し飲みする歓喜の表情が今でも浮かびます。一升瓶2本でとうてい足りるわけなく、
その日はもう一度往復して水を届けました。この水は大切坑内湧水で「ハロゲン分たっぷりの美味しい水」です。
この日の出来事から皆さん懲りて水筒を多めに持参するようになりましたが・・
それからも粂太郎社長と毎日のように足場の悪い山腹で、全て人力で鉄塔の基礎工事をしました。
こちらは20代、麓から20分ほどで難無く到着しますが、あちらはシベリア抑留体験者のご老体。
遥か見下ろすとノロノロと山を登る粂太郎さんの帽子が時折チラホラと見えます。
とにかくお気の毒でした。
採掘場~越後金丸駅選鉱場間の運搬方法変遷
操業期間 | 1949年~1975年頃? | 1975年頃?~1989年 | 1989年~1995年 | 1995年~2008年 |
主要採掘場名称と レベル | 3号坑 470m | 5号坑 405m | 露天採掘場 535m | 露天採掘場 490m |
採掘場から山元選鉱 場までの運搬方法 | 3~5号坑間索道と インクライン | 索道は廃止 インクライン | 露天上部~下部索道 | ダンプ輸送 |
山元の鉱山施設 | 山元選鉱場 | 山元選鉱場 | 廃止 | 廃止 |
山元から金丸駅選鉱 場までの運搬方法 | 山元~金丸駅 選鉱所間索道 | ダンプ輸送 | ダンプ輸送 | ダンプ輸送 |
麓の鉱山施設 | 越後金丸駅選鉱場 | 越後金丸駅選鉱場 | 越後金丸駅選鉱場 | 越後金丸駅選鉱場 |
左・選鉱場と山元事務所の間に位置する索道下部鉄塔、・1989年撮影
右・金丸鉱山神社の御神木、サルノコシカケが生えた老木で
伐採の際、お祓いを丁重に執り行ないました・1989年撮影
~衰退期~
平成6年(1994年)
経営権が昭和KDEから栃木県の部品メーカーに移る。
平成7年(1995年)
露天採掘場の下部移行(490mレベルまで掘り下げ)に伴い剥土量が増大。
更なる大型重機が必要になり、露天採掘場へ至る運搬道を開削し索道を廃止。
露天採掘場からダンプによる越後金丸駅横の選鉱場までの運搬になる。
※法面傾斜約70°、高低差10m毎に幅4mの小段(犬走り)を設けるように整形しながら、
頂部から下部へ、ベンチカット方式で進行し、現在の残壁傾斜は平均約60°です。
※露天採掘場から山裾間、道幅5m、平均勾配10%(約6°)以下、延長約2,000mの
運搬道路の開削に着手しました。
左・露天採掘場へ至る運搬道を開削・1995年撮影
右・露天採掘場の下部移行に伴い、表土の除去が次第に困難になりました、
写真の上部の殆どを占める茶色が表土、白色~灰色部は「長石」・1995年撮影
平成20年(2008年)
円高の進行で海外の安価な輸入「長石」に市場を奪われ、更に国内の
製造業が海外に「生産拠点」を移したために需要が激減して閉山。
産出鉱石品位表
鉱種 | 産出割合 | Al₂O₃ | K₂O | Na₂O | Fe2O3 | 価格 |
特級 | 17% | 18~19% | 10~11% | 3.2~3.6% | 0.07~0.10% | 約2万円強 |
粒鉱 | 26% | 17~17.5% | 10~10.5% | 2.8~3.4% | 0.09~0.12% | 約1万円強 |
粉鉱 | 39% | 16~17% | 9.8~10.5% | 3.0~3.6% | 0.15~0.22% | 約8千円強 |
珪石 | 2% | | | | | |
廃石 | 10% | | | | | |
尾鉱 | 4% | 18% | 9.8% | 3.2% | 0.35% | |
アプライト | | 12~13% | 5.5~7.5% | 3.0~3.5% | 0.15~0.30% | |
※「長石」のサイズの大小と品位、価格には相関関係があります。
採掘場から水洗をされ、運ばれてきた鉱石には必ず不純物が含まれていますが、
化学成分の(Al₂O₃アルミナ)+(K₂O+Na₂Oアルカリ)が多いほど「長石」の割合
が多いと判断されます。選鉱はベルトコンベヤーで流れてくる鉱石を目視で見分け、
珪石を含んでいない「長石」だけの大きい鉱石「特級鉱」を、拾い上げ専用ホッパーへ、
珪石、廃石を手で除去し「ズリ」用のホッパーへ、残りの鉱石は篩いにかけられ、
「粒鉱」と「粉鉱」に選別されますが、珪石、廃石の混入は避けられません。
従ってサイズが小さくなるほど不純物の混入率が高くなり、「長石」の品位が下がるため
Al₂O₃、K₂O+Na₂Oの数値が下がります。
平成2年当時の「長石」価格は最大サイズの特級鉱で1トンあたり約2万円強ですが、
輸入「長石」は、名古屋港に荷揚げして1トンあたり数千円~1万円強でした。
その後も円高が進行したため、価格差はさらに広がっていると思われます。
※窯業業界が価格の安い輸入鉱石にすぐに飛び付いた訳ではありません。
原料を混ぜて成形し、焼成する際に焼き物は若干縮みます。
産地が変わるとその収縮度合いも変わるため、ガラスのメーカーとは違い、
トイレなどの衛生陶器、高級食器、碍子などのメーカーは昔から原料(産地)
の変更には慎重です。金属鉱山が次々と閉山していく中で、大規模鉱床で
品質の安定した国内非金属鉱山は平成の時代まで命脈を保ってこれました。
金丸鉱山は70年以上に亘って国内需要に支えられてきましたが、
約160万トンを越える膨大な鉱石を残して閉山します。
学生さんからの質問
私が運営しているホームページに金丸鉱山の紹介文があります。
数年前に、それを見た卒論作成中の学生さんからメールを頂きました。
その方の質問に答えるために故加藤所長から聞いた話を書き記した資料を探し、
記憶を辿って答えた文章が下記です。
文章をまとめている時に、あの金丸の山中で過ごした、
若い日々が懐かしく、「金丸鉱山のことを記録に残したい」
という気持ちが突然に沸き上がってきました。
今回このページを作るきっかけになったメールのやりとりです。
今回ホームページを作るにあたって解説と写真、図を添付しました。
紫と青の文字で書かれた箇所が当時の原文です。