追憶の観世音-金丸鉱山

追憶の観世音-金丸鉱山





上ノ沢より見上げる金丸鉱山全景・1995年5月撮影。



まえがき



この狭い国土に律令国家が成立して現代に至るまでに開発された鉱山は、
個人で採掘した小規模なものまで含めると数千とも言われています。
人跡未踏の地でも鉱床が発見され、経済的価値が有ると判断されると
鉱山が開発されます。たとえ峻険な山奥でも人は富を求めて集まり、
集落や町を作り、鉄道と駅が作られ、主要な箇所は道路で結ばれます。
鉱山が他の業種と違うのは地下に埋蔵された「天与の富」
は有限で再生産はされず、採掘が続けば必ず枯渇します。
これを減耗(げんもう)資産といい、投資により増える資産とは異なります。
需給によって常に価値が変動し、掘り尽くすか不採算になれば閉山して、
人々は去り鉱山施設と集落は廃墟になります。
かつてこの国には鉱山が栄え、大勢の人々が鉱業に従事した時代が有り、
今では想像もつかないような山奥に人々の営みがありました。

これから紹介する鉱山も、沢の転石から偶然に鉱床が発見され、
豪雪地帯のため冬季は交通途絶する峻険な山中に開かれました。


〜鉱業の変遷〜

我が国における鉱物の大規模な利用は、
天平時代に国家事業として水銀の採掘より始まり、

戦国時代にはを、江戸時代にはを輸出するようになります。

明治以降は国家の近代化と富国強兵を支える主要な産業として、
当時の最先端の技術と人員、資本が投入され隆盛を究めました。

昭和に入るとエネルギー資源「石油」の需要が急増しますが、
国内生産では到底応えられず、一億人の国民が必要とする
あらゆる「資源」を求めて我が国は大戦に突入しました。

この世界大戦は「資源を持たざる国家が、資源を持てる国家」に、
”資源の確保””生存圏の拡大”を求めた争いでもありました。

戦争遂行の為、国内の鉱山は国家の統制下に置かれ、
採算を無視した乱開発と、探鉱を怠り、富鉱を掘り尽くした結果、
鉱利を損じ、更には労働者は徴兵され、資材と人員の不足で
疲弊した鉱業界には終戦時に老朽化した設備だけが残されました。

戦後は経済復興の為に国家が優先的に支援を行い、
探鉱、採鉱、選鉱、精錬における新技術の導入、
合理化もあって生産量も飛躍的に増加します。
好景気が追い風となって積極的な投資を行い、
鉱業界は1970年頃までの高度経済成長に貢献しました。

その後は貿易自由化、石油危機、長期不況などの社会情勢のために、
鉱業界の経営は急速に悪化します。

プラザ合意による1985年からの急激な円高の進行により、
鉱床規模と品位の劣る殆どの金属鉱山は国際的競争力を失い、
閉山が相次ぐようになります。

旺盛な国内需要に支えられた非金属鉱山は、
平成の半ば頃まで命脈を保っていましたが、
国内の製造業が海外に生産拠点を移したために需要が激減。
多くの鉱山で膨大な資源を残したまま、やむなく閉山し、
遂に我が国の鉱業は終焉に向かいました。

この鉱山も昭和~平成と社会情勢、経営状況の変化、技術革新により
採掘する鉱石の種類、採掘方法、鉱石の運搬方法が変わりました。


露天採掘場より鉱山施設を見下ろす。

左・谷間の左側が関川村立金丸小学校上ノ沢分校と集落跡地
  「沈砂池」手前の赤い屋根の建物は山元事務所・休憩所・1989年10月撮影

右・閉山から13年後の草木に覆われた鉱山と集落跡地・2021年5月撮影


〜新潟県のある鉱山のお話〜 

本当の話しでしょうか? 

新潟県と山形県の山深い県境に、
かつてレアメタルと窯業原料を採掘し
「長石(ちょうせき)」の生産量日本一の鉱山が有り、
約百人程の人々が生活する集落が存在して、
そこに小学校と中学校があったことを。


想像できるでしょうか? 


その鉱山は昭和の始めから平成の半ばまで、
70年以上も鉱石を産出し続け、食器、タイル、
碍子、ガラス等の原料となって人々の生活を支え、
この国の経済発展の一翼を担ったことを。


30年以上も昔に、私が働いた在りし日の金丸鉱山
を知っていただきたくてこのページを作りました。
故K所長には鉱山に関する様々な事柄を教えていただき、
その時の覚え書を編集してこのページを作りました。
穏やかで実直なお人柄が今でも偲ばれます。


私の大先輩でもあり、当時カナマル株式会社のS社長には
金丸鉱山の貴重な写真や図面・資料を頂戴し、
沿革、鉱床についてもご教示いただき感謝の念に堪えません。
ありがとうございました。


秋田鉱山専門学校校歌

一番  

天与の富はうずたかく  地下の宝庫に積まれたり
扉開きて埋もれたる  無限の富を掘り出でん
我等が業は昔より  国の力の源ぞ
我等が業はとこしえに  国の栄えんもとなるぞ

二番  

世に隠れたる鉱脈も  人に知られぬ炭層も
みがける知恵の光明に  照らさば遂に護らる可し
我等が業は日に月に  文化と共に開け行き 
我等が業は極みなく  人智につれて進み行く


金丸鉱山位置図
左下にJR米坂線「越後金丸駅」、右上に金丸鉱山


金丸(観世音)鉱山は新潟県関川村と山形県小国町との県境に位置し、
推定埋蔵鉱量約2百万トンを越えて本邦第1位の埋蔵規模を誇り、
石英を殆ど含まないペグマタイト鉱床で主に「長石」を採掘していました。

他の地域のペグマタイト鉱床と大きく異なるのは文象構造を欠き、
晶洞は無く、白色の石英のみで、自形の水晶は産出しません。

鉱山に行くには、JR米坂線越後金丸駅前の国道113号線を坂町方面に向かい、
荒川を右手に見ながら走行。八ツ口のトンネルを抜けて上ノ沢の橋を渡ると、
直ぐ右に舗装道路が見えます。ここが金丸鉱山に至る道路で上ノ沢に沿って、
舗装、砂利道を進むこと約5Kmで鉱山跡に至ります。





左・金丸鉱山の諸施設・1995年撮影
右・鉱山施設平面図



沿革



減耗(げんもう)資産を採鉱する鉱山の盛衰は人間の成長過程のように大きく4つに分けることができます。

黎明期:鉱床が発見され開発が始まったばかりで鉱量の把握も充分でなく、積極的な設備投資も未だ行われません。

成長期:投資が実を結び生産量も増え、既採鉱分を補うために積極的な探鉱を行い、次々と新鉱体が発見され需要に応えます。

成熟期:需要はあるものの新たな鉱体は期待できず、鉱量算定は終了し鉱床の価値が確定。設備投資を控え既存鉱体の採鉱に専念します。

衰退期:富鉱を堀り尽くしたために採鉱コストが嵩むようになり、閉山を視野に入れ償却の終わった設備で生産を行います。


金丸鉱山も多くの鉱山と同じような 過程を辿りました。

~黎明期~



昭和7年(1932年)

新潟県関川村(旧女川村)上ノ沢で「光る石」としてモリブデン鉱、タングステン鉱が発見される。

昭和11年(1936年)

広島県から来た、山師宮田友二氏により、観世音鉱山と名付けられ採鉱がおこなわれる。

※鉱床発見は観世音菩薩の導きによるものだということで、観世音鉱山と名付けました。
 鉱山開発者の宮田友二氏は白馬に跨り、八ツ口、金丸の集落を闊歩していたそうです。
 金丸鉱山の協力会社・八ツ口のH土建粂太郎社長曰く、子供心にも「颯爽としていて憧れだった」
 一山当て、軍からの資金と物資支援も取り付け「我が世の春を謳歌」していたのでしょう。
 これといって産業の無い山奥の集落に鉱山での雇用を生み出したのは氏の功績です。

※モリブデンの鉱石(輝水鉛鉱)は今の「長石」採掘場に隣接した水鉛沢で産出しました。
 水鉛沢を少し登った右側斜面に観世音鉱山の坑口が在りました。ここは細粒黒雲母花崗岩を
 貫く脈状ペグマタイトに伴うもので鉱体規模が小さく、モリブデンの採鉱は長続きしませんでした。

※1990年頃の水鉛沢にはモリブデン観世音鉱山の探鉱・試掘・採鉱跡がいくつか残っていました。
 殆どが金丸鉱山の1号坑、3号坑、露天採掘場からのズリで埋まってしまいましたが、
 川底の転石を探すと、酸化鉄で茶色く変色した石英中に輝水鉛鉱を見る事が出来ました。




左・金丸鉱山産のカリ長石・1989年採取
右・水鉛沢で拾った条線の見える観世音鉱山産の輝水鉛鉱。茶色く変色した石英と共生していましたが、
苔を落とすために水洗いをしたら輝水鉛鉱だけが外れてしまいました・1989年採取

※タングステン鉱(鉄重石)の観世音鉱山「長石」の採掘場所とは反対側、不老峰を越えた長谷沢上流の
 含タングステン石英脈で採鉱、選鉱され、長谷沢上流が観世音鉱山の主力採鉱地となりました。
 観世音鉱山は採掘鉱種の変更により採鉱地が大きく移動しています。
 従って、水鉛沢と長谷沢上流、この2か所を併せたのが観世音鉱山です。
 この長谷沢上流の鉄重石露頭発見の経緯は、偶然なのか地表探鉱したのかは不明です。



昭和12年(1937年)

大切坑(おおぎりこう)掘進の際に「長石」が主体のペグマタイト脈(最大幅6m、延長60m程度)を発見。
しかしながら当時は軍需物資のタングステン、モリブデン鉱の採掘に重点がおかれ、
軍も積極的にこれらの金属資源採掘に資金と物資の支援を行う。


※鉄重石は不老峰(標高730m)近くの尾根を越えて上ノ沢まで簡単な索道と人力で
 運ばれていましたが、「重石」というだけあってとにかく重くて大変でした。
 そこで効率良く搬出するために長谷沢から上ノ沢まで、山を貫通する大切坑(おおぎりこう
 ・鉱山で最下部に位置する坑道。運搬や排水などにも使われる)の掘進を始めました。


昭和13年(1938年)

豊富な水とそれを利用した電力、観世音鉱山からの原料確保が可能な山形県小国町に
日本重化学工業(旧・日本電興株式会社)が操業を開始、合金鉄の製造を始める。


昭和14年(1939年)

帝国鉱業開発株式会社の傘下に入る。

 ※鉱山開発には資本が必要で、低品位鉱石や運搬費用のかかる山間僻地の
  鉱床の開発には、採算性を重要視する民間企業は参入しません。
  しかしながらこの頃の日本は戦争遂行に必要な銅・鉄・鉛・亜鉛・錫・石炭・
  マンガン・タングステン・モリブデンなどの鉱物資源を確保するため、採算を度外視した
  資源開発を行う戦時国策会社の「帝国鉱業開発株式会社」が設立されます。

  その一方で、政府は不足している資源を輸入で補うため、民間には鉱物輸入決済のための
  「金」の増産を奨励しました。

  金鉱山開発には奨励金交付、機械類の無料貸与など他の鉱種の鉱山よりも優遇されました。
  しかし大東亜戦争開戦により輸入が困難になると、1943年には一転して金鉱山の資材・労力を
  他の鉱山に振り向けることにし、銅の精錬に必要な含金珪酸鉱を産する一部の金鉱山を除き、

  ほぼ全ての金鉱山は閉山となりました。これを「金鉱山整備令」といいます。

  戦線の拡大に伴い国内の殆どの鉱山の操業権は「帝国鉱業開発株式会社」に移されました。


   1943年 商工大臣 岸信介 “鑛山戦士に告ぐ”

  「ここにおいて政府は一大英断をもって国内の全金山を閉止し
  金山における産業力をもって銅、鉄、石炭などの大増産に
  即時転換せしめる決意を固めるに至った」

   鉱山経営が「経済」ではなく、「国家の意思」に翻弄された時代でした。

 

昭和20年(1945年)

大東亜戦争終戦によりタングステン、モリブデンの需要と軍の支援が無くなり休山となる。
終戦後、鉱山では大切坑掘進の際に発見されたペグマタイト脈の地表探査を行い、
不老峰(標高723m)南東斜面に「長石」の大露頭を発見。


採掘対象の鉱種の変遷

鉱石名有用元素採掘場所採掘期間主な用途
輝水鉛鉱モリブデン Mo水鉛沢1936年~1945年工具用の合金鋼、潤滑油
鉄重石タングステン W長谷沢1936年~1945年銃身、砲弾、工具用の合金鋼
正長石
微斜長石
カリウム K、ナトリウム Na
アルミニウム Al
不老峰南東斜面1947年~2008年陶磁器、ガラス
石英酸化ケイ素 SiO2不老峰南東斜面1947年~2008年陶磁器、ガラス、半導体

~成長期~


昭和22年(1947年)

「長石」採掘を始めるも資金難のため、宮田友二氏は上京して安田信託銀行の頭取と直談判。
安田信託銀行から3千万円の融資を受け新会社設立へ

  ※宮田友二氏は融資の話が進むうちに頭取と賭けをして、「酒を一升飲み干すと1千万円、
  結局、三升飲んで3千万円の融資を受けた」という武勇伝が鉱山に伝わっています。
  酒を一人で三升も飲める筈もなく、いくら戦後の混乱期とはいえ契約が酒席で行われ、
  融資金額が宮田友二氏の胆力で決まったとは考えづらいので、実際は「鉱床の価値」
  が評価されたのでしょう。この話の真偽がどうであれ、豪胆な人柄であったようです。

  戦前は軍からの資金と物資支援を取り付け、戦後は金融機関から巨額の融資を得る手腕は
  並大抵ではなく、金丸鉱山の生みの親ということもあり興味深い人物です。
  

 
昭和24(1949年)

日本窯業化学㈱を設立し上ノ沢鉱業所を開設、露頭部の露天堀りから始まり、
直ぐに1号坑での採掘へ(当時は大型重機も無く、表土の除去、運搬が困難だったため)。
この年の11月には上ノ沢鉱業所~選鉱所(越後金丸駅に隣接)4,650mの架空索道
(安全索道株式会社・Ansakuにより建設)が開設。


※戦争中に疲弊した鉱業界は国家の支援策も有り、徐々に戦後の復興を始めていましたが、
 その足取りは鈍く、多くの鉱山で積極的な設備投資を控えていました。
 その中、4,650mの架空索道の建設は、鉱業界では当初は驚きの目で見られていたようです。

 索道会社の多くは戦前はロープウェイなどの観光用から、戦時中は運搬用の重要機械の製造事業者
 として優遇措置を受けていましたが、終戦後は経営環境が一変、厳しい経営を強いられていました。
 翌年の朝鮮戦争が契機となり、鉱業界に空前の好景気が到来し、鉱石運搬用の架空索道の需要が急増。
 国内の索道会社は経営を建て直します。

 程なくして余暇を楽しむ時代が到来し、索道業界は観光用ロープウェイ、スキー用リフトなどの需要増に応えます。
  

昭和25年(1950年)

朝鮮戦争勃発によりタングステン市況高騰。
戦前にタングステンを採掘していた観世音坑内より鉄重石の残鉱を回収。
その頃、鍋倉鉱山(村上市)を150万円で買収し支山とするも、その後鉱況悪化により150万円で売却。

以降金丸鉱山は現在の採鉱地で「長石」、珪石のみの採掘となる。

「長石」鉱床の西側には莫大な量のアプライト(半花崗岩)が賦存するも、
消費地から遠いため、採算性を考慮して稼行対象とはならず。

※タングステンは特性上、特殊合金としての需要があり重要な軍需物資です。
 「東洋の金属」と呼ばれるように東アジアに偏在し、当時の主な産地は日本、朝鮮半島、中国です。
  戦争で必要な金属の産地が戦場になったのですから需給バランスが崩れ”大高騰”しました。
  タングステン精鉱(WO3 65%)が当時の価格で100万円/t 強という鉱業界伝説の高価格を記録します。

  当時金丸鉱山の従業員は女性も含めて総出でタングステン鉱石を集めたそうです。
  主な採鉱地は観世音鉱山で、1km近い大切坑道を通り抜け、終戦で休山した採鉱地で
  人海戦術により、かつては見向きもされなかった低品位鉱やズリ中の鉱石、選鉱の片刃は
  もちろんのこと尾鉱まで採取対象になりました。

  この話を聞くと観世音鉱山を今訪れても鉱石採取はあまり期待できないような気がします。
  1950年代の統計資料で金丸鉱山のタングステン生産量は、殆どが観世音鉱山からの産物です。
  
※アプライトは重要な窯業原料で、消費地に近い中部地方以西では盛んに稼行されていました。
  この不老峰西部のアプライト帯には、「長石」を主体とする複数の大小ペグマタイト脈が有ります。
  中でも最大の不老峰長石露頭と本鉱体との連続性を確認するため、2号坑より立入坑道
 (たていれ・探鉱のための坑道)を掘進するも、鉱体は連続せず、不老峰露頭は独立した
  衛星鉱床であることが確認されました。


長石は陶磁器とガラスの主な原料の一つで、長石のアルカリ成分(K₂O+Na₂O)は焼締まりを良くし、
溶融温度を下げ、製品を透明にするなどの優れた特徴を持っていて欠かせない原料です。

鉄分(Fe₂O₃)が少なく、アルカリ成分(K₂O+Na₂Oアルカリ)を10~15%含んでいるものが利用されます。


成分別長石の用途

グレード鉄分Fe₂O₃% アルミナAl₂O₃ %アルカリR₂O%主な用途
特選0.3%以下 ― ―白色うわ薬用
1級A0.5%以下 ― ―一般うわ薬・白生地用
1級B0.5%以下18%以上10%以上板ガラス用
2級1.0%以下 ― ―一般生地(素地)・ガラス用
3級1.0%以上 ― ―ほうろう鉄器用



〜鉱山の思い出話①-不老峰露頭の再発見〜

 この不老峰露頭はカナマル㈱S社長が鉱専の地質実習時に、腰かけておにぎりを食べたと聞いていました。
 多くの鉱山関係者が退職し、長らく場所が不明になっていましたが、S社長の「眺めが良かった」をヒントに
 灌木をかき分けガレ場を登攀し、何度も探索してようやく探し当てた時は感慨深いものがありました。
 場所により白雲母がかなり付着していますが、石英を殆ど含まない「長石」の露頭で、周囲を
 試掘をした形跡がありました。S社長からは何度も「あんたが発見した露頭だよ」と言っていただき、
 鉱山会社に入りたての若輩者としてこれほどうれしい誉め言葉はなく天にも昇る気持ちでした。

 露頭の再発見は平成元年6月、梅雨の晴れ間の蒸し暑い日のことで今でも鮮明に覚えています。
 探索中はヒメサユリが上ノ沢から不老峰にかけての山肌にあちらこちらで咲いていました。
 




左・昭和38年当時の地形及び地質図
  1967年地質調査所月報18 上野三義
 「新潟県金丸鉱山のペグマタイト鉱床について」より抜粋


右・倒壊した3号坑(470m )建屋・1995年撮影



〜鉱山の思い出話②-論文執筆者との出会い〜

 当時、金丸鉱山の仕事をする際に上記の論文が読みたくてあれこれ手を尽くし、
 やっと探しあてた閲覧場所が、栃木県益子の窯業試験所と国立国会図書館。
 それが今では簡単に閲覧できるのです。ネットは本当に便利ですね。

 上野三義氏はこの頃、島根県の関連会社が登記した新会社の顧問をしておられました。

 東京本社でお会いした際に、ご本人にこの資料を差し出すと「懐かしいね」と言いながら
 喜んでいただき、鉱体の下部延長に興味を示され4、5号坑開発に関して質問されました。
 私が緊張して話す金丸鉱山の現況を、目を細めて終始笑顔で聴いておられたのを
 今でも思い起こせます。


昭和39年(1964年)

共立窯業原料(現・共立マテリアル株式会社)が日本窯業化学㈱を買収。

※名古屋方面の陶磁器メーカー以外にも、東日本各地に板ガラス、光学ガラス、
 碍子などの原料を供給していましたが、森村グループの傘下に入ったことにより
 グループ内の陶磁器メーカーにも「長石」、珪石を販売するようになり販路拡大。

 高度成長期に入ったこともあり、需要増に応えるためにこの頃に積極的な探鉱を行いました。

 周辺には大規模な鉱床を発見出来ないものの坑内試錐により下部への鉱体延長を確認。
 4、5号坑(シュリンケージ採掘)の開発に繋がります。

この頃より昭和49年(1974年)までの10年間は年間生産量が2万トンを越え鉱山の最盛期を迎えます。




左・昭和38年当時の鉱床断面図 右・坑内透視図
  1967年地質調査所月報18 上野三義
 「新潟県金丸鉱山のペグマタイト鉱床について」より抜粋




鉱山の各坑口のレベルと鉱体の拡がりは以下の通り

坑口レベル 北東-南西方向 北西-南東方向 鉱床面積珪石+アプライト面積長石面積
露頭  550mNE-SW 50mNW-SE 25m
1号坑  530m同上  40m同上 90m2548㎡2548㎡
2号坑  500m N10°E 90mN80°W 180m8350㎡1090㎡7260㎡
3号坑  470m同上 110m同上 260m17160㎡3070㎡14090㎡
4号坑  435m
(坑口が無い水平坑道)
同上 70m同上 170m7940㎡1450㎡6490㎡
5号坑  405m同上 90m同上 180m7300㎡2430㎡4870㎡
大切坑 385m
(坑口を閉塞して貯水、選鉱用水へ)


※鉱体は標高550m付近に露頭が有り、標高600mの山峰を越えて西に
  約20°の傾斜で、沈み込むように拡がっています。
  鉱床断面図、坑内透視図と上表から、2号坑~3号坑付近で最も膨らみ、
  品位、鉱量ともに富鉱部を形成していることが分かります。
  鉱体の形状は”胃袋状”又は”ラグビーボール状”とも形容されています。

  5号坑から2本の坑内試錐により45m下部まで鉱体の延長を確認していて、鉱量、
  品質の確定には更に数本の試錐探鉱が必要ですが、実施されないまま閉山になりました。

 1~5号坑の間隔は標高差で約30m、鉱山での採掘は基本的に下から上へ向けて削岩して発破。
 鉱石は自重で下に落ち、最下部の坑道に待機したトロッコに積まれて坑口へ。
 坑内に湧き出る水もやはり一番下の坑道へ。
 この最も低いレベルに有る坑口を持った坑道を「大切坑」と言います。
 5号坑が金丸長石鉱山の大切坑です。

 両端が外部に開口していて、運搬、排水などの目的に使われている主要な坑道を通洞(つうどう)と呼びますが、
 昭和12年(1937年)に掘削された上記「大切坑」は観世音タングステン鉱山の「通洞」でもあります。
 長石を採掘する金丸鉱山になってからは、坑口を閉塞して貯水、選鉱用水として使用されていました。


長石、石英中の鉄などの金属成分は窯業業界では嫌われます。
 鉄分が多いと焼成の際に茶色くなり、白い製品が出来なくなります。
 それ以外にも金属は導体のため、絶縁性が要求される碍子(がいし)には使用出来ません。
 坑内で時折産出される、タングステン、モリブデン鉱は、5号坑口から出て通常の小割、
 水洗(大切坑湧水)の工程に進む前に大切坑横のズリ捨て場に直行します。




左・掘進から約80年後の観世音鉱山大切坑と流れる豊富な湧水。
   この坑道は堅固な花崗岩を掘り抜いているため支保はされていません。
  私の在職中は岩壁の白くなっている高さまで湧水が貯水されていて入坑は不可でした。
  この坑道は現在は崩落していて観世音鉱山に抜けていないと思われます。
  坑道の中程で酸欠になった方々がいるので入坑は危険です・2021年11月撮影

右・大切坑口横のコンプレッサー室。 削岩機、鉱石積込ローダーなど
  鉱山機械は圧縮空気が動力です。・2021年11月撮影

~成熟期~


昭和42年(1967年)

羽越豪雨(うえつごうう)で生産設備に壊滅的打撃を受ける。
(㈱共立窯業原料50年史に被害状況の詳細記載)
木造の山元事務所、索道支柱も土砂崩れ等により倒壊。

※耐久性に優れた鉄筋コンクリート造にするため、当時の村上市役所の建築図面
 を借りて二階部分までを山元の作業員だけで建築。
 かなりの支柱が被害を受けて運行不能だった索道も復旧し、ようやく採掘、販売を再開。

 その後、5号坑から下部の6号坑、7号坑への開発を計画しましたが鉱体下部は、
 「長石」よりも珪石の割合が増えるため、「長石」の品位(アルミナ、アルカリ分)
 が低下する傾向が有り、更には鉄分(黄鉄鉱)も増加し品質低下の恐れと資金難、
 「長石」販売量の減少(昭和49年以降)もあり鉱体下部の開発を断念します。


 「長石」は金属鉱物と違い、相場に左右されない比較的安定した鉱石価格ですが、
 長引く景気の低迷、輸入長石の台頭による販売量の減少と羽越豪雨災害からの
 復旧借入金が重荷になり赤字体質が続きます。





左・露天採掘場から見下ろす5号坑
  ホッパー上部の開口部はかつて3号坑からの鉱石を索道で受け入れていました・1995年5月撮影

右・水害後に鉱員だけで再建された山元事務所・休憩所・1995年5月撮影


昭和50年頃?

索道を廃止して、山元から選鉱場までのダンプ輸送に切り替える。

※鉱山の最盛期を過ぎたことにより、年間生産量が半分の1万トン強にまで減少。
 運搬能力120トン/日の索道設備は過剰になり、維持費もかかることから
 索道からダンプ輸送に転換しました。採掘を行う作業員とその家族は減少し、
 残った作業員も麓から車で通うようになり金丸小学校上ノ沢分校は閉校へ。





左・越後金丸駅に隣接した貯鉱場
 奥は採石会社のプラント・1995年撮影

右・越後金丸駅に隣接した貯鉱舎・2021年撮影


昭和59年(1984年)

株式会社昭和鉱業(現昭和KDE)に経営権が移り、カナマル株式会社になるも販売先は同じ。

※昭和鉱業に経営権が移り、開発で最初に着手したのは国道113号線から採掘場の山裾に至る、
 運搬道路の拡幅でした。特に長石橋~イタドリ沢、越戸断層、ダラダラ坂~採掘場までの区間は
 峻険な地形で、山肌の傾斜は40°を越え、上ノ沢が深い浸食谷を造っていて交通の難所でした。
 索道の廃止時期に開削された道路は2トン以下のダンプがようやく通行できる道幅しかなく、
 交差場を設けるには適さない地形のため、運搬ダンプの通行台数には限界がありました。
 堅牢な花崗岩地帯を開削する場合、通常はクローラードリルで穿孔、発破を最初に行い、
 重機で破砕された岩石を除去しますが、発破は準備作業も含めてかなり時間を要します。
 この時用いられた開削工法では、系列の栃木県・昭和関白鉱山から油圧ブレーカーと
 ユンボ、オペレーターの技術支援を受けて限られた工期の制約下、直ちに工事に着手、
 業界関係者の多くが懐疑的な中で、発破に頼ることなく極めて短期間で工区開削に成功。
 鉱山開発における重機導入の先鞭をつけました。

 断崖で作業するオペレーターの眼下には、遥か谷底に渦巻く上ノ沢の渓流、
 旋回するユンボのボディが岩壁にぶつかると転落の危険が有り、慎重に作業を終えて
 ユンボから降りてきたオペレーターの脚はガタガタ震えていたそうです。





左・イタドリ沢、関川村刊行の「2003 関川村 山岳・渓流地図」によると
”鉱山の近くにある沢ですので、支保工用の板を切り出した沢であろうと思われる”
と解説されています。・2021年撮影
 
右・イタドリ沢を過ぎると「ダラダラ坂」の緩やかな坂道
  日本窯業化学㈱時代のW所長はあちこちの沢などにユニークな名称を付けています。
  小さい沢には「一杯清水」など・・この坂の名称もそのうちの一つ・2021年撮影
 



左・ダラダラ坂~小長沢~ミツギ沢の区間は急傾斜の山肌が続く・2021年撮影
 
右・舗装道の終点、小長沢と上ノ沢の合流地点・2021年撮影

昭和63年(1988年)

索道のワイヤーを切断し回収。
国道113号線横の1号鉄製支柱を撤去。

索道の老朽化が進み、木製の支柱の多くが傾き、米坂線と国道113号線を跨ぐ
 索道のワイヤーが垂れ下がる危険が有るために切断、撤去しました。
 今では木製の支柱は全て朽ち果て、八ツ口の2号鉄製支柱のみ現存しています。
 索道のワイヤー(主索)を切断することにより電話線も不通になりました。
 この電話線は山元と越後金丸駅選鉱場・事務所を結ぶ唯一の通信手段です。
 電話といっても鉱山施設内のみの電話で、黒電話の横のハンドルを回して相手を呼び出します。
 比較的簡単な設備で済むので、鉱山だけでなく、鉄道、工場など広く使われていました。
 電話線切断後は「業務用無線」を設置して連絡手段にしましたが、山深いために平成以降も
 携帯電話が使える環境にはなく、この「業務用無線」が閉山まで唯一の通信手段として使用されました。

 2021年現在でも金丸の山中では携帯電話は圏外です。
 




八ツ口に現存する2号鉄製支柱・2021年撮影

  ※この頃から5号坑の鉱石に鉄分が多く含まれるようになり品質が低下しました。
 そこで良質な鉱石が残っている4号坑でも採鉱しました。
 4号坑は坑口が無い坑道で、このような坑道を盲(めくら※今では差別用語です)
 坑道と言います。坑口が無いので4号坑に 行くには、5号坑から採掘の終わった
 空間に梯子を設置して約30m昇ります。4号坑で採掘された鉱石は先程の5号坑の
 採掘済みの空洞に落とされ、下部の 穴から抜き取られ、バッテリー走行の
 鉱石運搬貨物列車に積まれ5号坑口へ。
 そこでは線路の横に大きな穴(ホッパー)が有り鉱石は貨車からそこに落とされます。
 鉱石は斜面(インクライン)を移動して下の選鉱場へ。
 大きな塊は小さく割られた後に水洗(大切坑の湧水)してダンプに積まれます。
 
 越後金丸駅に隣接した選鉱場に運ばれた鉱石はベルトコンベアーに載せて運ばれ、
 作業員の手によって(手選、ピッキングともいう)、「長石」、珪石、ズリに分けられ
 品質を向上させて出荷されます。





左・崩落した5号坑口とバッテリー運搬車とレール
  左上に「蓄電池式機関車軌道始点」と書いています・2021年11月撮影

右・5号坑下の貯鉱場から選鉱場へ小割りされた鉱石を運ぶインクライン(斜坑)
  ケーブルカーのように箱車が軌道上を移動します・2021年11月撮影




〜鉱山の思い出話③-消えるカンテラ〜

坑内ではカンテラが必需です。大学の実習で訪れた鉱山は全て充電式の電灯でしたが、
金丸鉱山で始めてアセチレンガスのカンテラに出合いました。

腰にタンクをぶら下げ、ここにカーバイト(炭化カルシウム)を入れ水を加えると、
アセチレンガスが発生します。これに石を擦り合わせるライターの点火具で着火させます。

坑内はあちこちで天井から水滴が落下していて、この水滴がカンテラの炎に触れると・・・消えます。

慣れた採鉱員は手早くポケットのライターで再着火させるか、近くの同僚から火を貰います。
その時は甘く考えていました。切羽から離れた5号坑の引立(ひったて・坑道の最奥)に居たのです。

辺りは漆黒の闇・・・

聞こえるのはかなり遠くの作業音、坑内の水滴の音、アセチレンガスの独特の匂いだけ・・・

私はタバコを吸わないのでライターを持参せず、手探りで壁を伝い、「作業音」の聞こえる
方向に歩きますが、気持ちばかりあせって何度もつまずき、この時間が恐ろしく長い・・・
なかなかの恐怖です。ようやく切羽の採鉱員に助けてもらいましが、それからは小さい
懐中電灯をポケットに常備するようにしていました。

その時の恐怖から、結局4号坑には行けずに今に至ります。




左・大切坑の入口、左側がコンプレッサー室・2021年撮影
 
右・中央の階段を昇ると左側は5号坑口、右側は鉱石投入ホッパー・2021年撮影



左・鉱石投入ホッパー。貨車からホッパーへ投入された鉱石は
  グリズリーバー(篩格子)を通過後、一時貯鉱場へ・2021年撮影
 
右・倒壊した山神社から観世音沢向かいの5号坑を望む。
  我々鉱員は、入坑の際は必ず手を合わせ、安全を祈願して
  から採鉱をしていました・2021年撮影

平成元年(1989年)

坑内優良鉱の減少、坑内環境の悪化と合理化のため露天採掘に切り換える。

※出勤すると5号坑口に積んであった古新聞の束が外に吹き飛ばされていた事が有りました。
 坑内空間が崩落し、その際に空間内の空気が押し出されたものと推定されました。
 4号坑の残鉱を採掘するということは、天盤を支える竜頭(りゅうず・坑道保護の為に残す鉱柱のこと)
 も採鉱の対象にすることです。
 地表部の陥没も進行していて、保安上の理由からも露天採掘への移行が急がれました。

 


左・貯鉱場と大切坑からの豊富な湧水を使用した選鉱場、
  水洗後の小さい長石、珪石、ズリが堆積しています。
  これらは林道の敷石に使用されました・1989年撮影

右・露天採掘場、索道の上部鉄塔が見えます・1989年撮影



左・露天採掘開始頃の切羽(きりは)・1989年撮影

右・露天採掘開始当時は坑内空間の崩落により地表部が陥没、
  鉱体が露出し表土の除去は比較的容易でした・1989年撮影

※露天採掘場までのダンプの通行出来る道路は建設にコストと時間が
 かかる上に当時の生産量では、索道による運搬だけで充分でした。
 そこで人力で資材を600mレベルまで運んで簡易索道を設置。
 鉄塔の基礎となるセメント、鉄骨などを小分けして運搬し、
 上部鉄塔とアンカーを建設。対になる下部鉄塔との間にワイヤーを張り、
 巻き上げ機を設置すれば本格的な索道の完成です。
 続いて採掘に必要な大型重機(ユンボ)を解体して索道で露天採掘場
 に運び、再び組み立てた後に採鉱となります。
 露天採掘場(535mレベル)より選鉱場下の貯鉱場までこの索道
 (上部鉄塔585m~下部鉄塔348m)で搬出。
 そこから4トンダンプで越後金丸駅横の選鉱場まで運搬。


〜鉱山の思い出話④-粂太郎さんのこと〜

 索道の基礎工事開始日はかなり暑い日で、私は所要がありH土建粂太郎社長と作業員が先に露頭に。
 八ツ口のH土建粂太郎社長は鉱山に関して何でも知っていて生き字引のような方です。
 この方なら索道の廃止時期を知っていたかも知れませんが・・・今では悔やまれます
 さて、昼近くに山元事務所に戻ると無線機から粂太郎さんの「水!水をくれ~」の悲痛な声が。
 水筒を忘れて炎天下で早々にダウンしたそうで、かれこれ1時間近く無線で呼び出していたのだとか。
 事務所に下りるとまた現場まで戻らなければならないので、現場死守の方針に徹したとのこと。
 山元事務所にあった空の一升瓶2本に水を入れ、急いで現場に向かうと日差しを遮るものが何もない
 すり鉢状の陥没穴に粂太郎さん他数人が息も絶え絶えにうずくまっていました。
 差し出した一升瓶を回し飲みする歓喜の表情が今でも浮かびます。一升瓶2本でとうてい足りるわけなく、
 その日はもう一度往復して水を届けました。この水は大切坑内湧水で「ハロゲン分たっぷりの美味しい水」です。
 この日の出来事から皆さん懲りて水筒を多めに持参するようになりましたが・・

 それからも粂太郎社長と毎日のように足場の悪い山腹で、全て人力で鉄塔の基礎工事をしました。

 こちらは20代、麓から20分ほどで難無く到着しますが、あちらはシベリア抑留体験者のご老体。
 遥か見下ろすとノロノロと山を登る粂太郎さんの帽子が時折チラホラと見えます。
 とにかくお気の毒でした。
 


採掘場~越後金丸駅選鉱場間の運搬方法変遷

操業期間 1949年~1975年頃?1975年頃?~1989年1989年~1995年1995年~2008年
主要採掘場名称と
レベル
3号坑
470m
5号坑
405m
露天採掘場
535m
露天採掘場
490m
採掘場から山元選鉱
場までの運搬方法
3~5号坑間索道と
インクライン
索道は廃止
インクライン
露天上部~下部索道ダンプ輸送
山元の鉱山施設山元選鉱場山元選鉱場廃止廃止
山元から金丸駅選鉱
場までの運搬方法
山元~金丸駅
選鉱所間索道
ダンプ輸送ダンプ輸送ダンプ輸送
麓の鉱山施設越後金丸駅選鉱場越後金丸駅選鉱場越後金丸駅選鉱場越後金丸駅選鉱場




左・選鉱場と山元事務所の間に位置する索道下部鉄塔、・1989年撮影

右・金丸鉱山神社の御神木、サルノコシカケが生えた老木で
  伐採の際、お祓いを丁重に執り行ないました・1989年撮影

~衰退期~


平成6年(1994年)

経営権が昭和KDEから栃木県の部品メーカーに移る。


平成7年(1995年)

露天採掘場の下部移行(490mレベルまで掘り下げ)に伴い剥土量が増大。
更なる大型重機が必要になり、露天採掘場へ至る運搬道を開削し索道を廃止。
露天採掘場からダンプによる越後金丸駅横の選鉱場までの運搬になる。


※法面傾斜約70°、高低差10m毎に幅4mの小段(犬走り)を設けるように整形しながら、
 頂部から下部へ、ベンチカット方式で進行し、現在の残壁傾斜は平均約60°です。

※露天採掘場から山裾間、道幅5m、平均勾配10%(約6°)以下、延長約2,000mの
 運搬道路の開削に着手しました。
 




左・露天採掘場へ至る運搬道を開削・1995年撮影

右・露天採掘場の下部移行に伴い、表土の除去が次第に困難になりました、
 写真の上部の殆どを占める茶色が表土、白色~灰色部は「長石」・1995年撮影

平成20年(2008年)

円高の進行で海外の安価な輸入「長石」に市場を奪われ、更に国内の
製造業が海外に「生産拠点」を移したために需要が激減して閉山。


産出鉱石品位表

鉱種 産出割合 Al₂O₃ K₂O Na₂OFe2O3価格
特級17%18~19%10~11%3.2~3.6%0.07~0.10%約2万円強
粒鉱26%17~17.5%10~10.5%2.8~3.4%0.09~0.12%約1万円強
粉鉱39%16~17%9.8~10.5%3.0~3.6%0.15~0.22%約8千円強
珪石2%
廃石10%
尾鉱4%18%9.8%3.2%0.35%
アプライト12~13%5.5~7.5%3.0~3.5%0.15~0.30%


「長石」のサイズの大小と品位、価格には相関関係があります。
  採掘場から水洗をされ、運ばれてきた鉱石には必ず不純物が含まれていますが、
  化学成分の(Al₂O₃アルミナ)+(K₂O+Na₂Oアルカリ)が多いほど「長石」の割合
  が多いと判断されます。選鉱はベルトコンベヤーで流れてくる鉱石を目視で見分け、
  珪石を含んでいない「長石」だけの大きい鉱石「特級鉱」を、拾い上げ専用ホッパーへ、
  珪石、廃石を手で除去し「ズリ」用のホッパーへ、残りの鉱石は篩いにかけられ、
  「粒鉱」と「粉鉱」に選別されますが、珪石、廃石の混入は避けられません。
  従ってサイズが小さくなるほど不純物の混入率が高くなり、「長石」の品位が下がるため
  Al₂O₃、K₂O+Na₂Oの数値が下がります。

  平成2年当時の「長石」価格は最大サイズの特級鉱で1トンあたり約2万円強ですが、
  輸入「長石」は、名古屋港に荷揚げして1トンあたり数千円~1万円強でした。
  その後も円高が進行したため、価格差はさらに広がっていると思われます。

 ※窯業業界が価格の安い輸入鉱石にすぐに飛び付いた訳ではありません。
  原料を混ぜて成形し、焼成する際に焼き物は若干縮みます。
  産地が変わるとその収縮度合いも変わるため、ガラスのメーカーとは違い、
  トイレなどの衛生陶器、高級食器、碍子などのメーカーは昔から原料(産地)
  の変更には慎重です。金属鉱山が次々と閉山していく中で、大規模鉱床で
  品質の安定した国内非金属鉱山は平成の時代まで命脈を保ってこれました。


金丸鉱山は70年以上に亘って国内需要に支えられてきましたが、
約160万トンを越える膨大な鉱石を残して閉山します。


学生さんからの質問




私が運営しているホームページに金丸鉱山紹介文があります。
数年前に、それを見た卒論作成中の学生さんからメールを頂きました。
その方の質問に答えるために故K所長から聞いた話を書き記した資料を探し、
記憶を辿って答えた文章が下記です。

文章をまとめている時に、あの金丸の山中で過ごした、
若い日々が懐かしく、「金丸鉱山のことを記録に残したい」
という気持ちが突然に沸き上がってきました。
今回このページを作るきっかけになったメールのやりとりです。
今回ホームページを作るにあたって解説と写真、図を添付しました。
紫と青の文字で書かれた箇所が当時の原文です。

はじめまして。○○大学の4年生の○○と申します。
大学の卒業論文で金丸鉱山について研究しています。
サイトをみて金丸鉱山で働いていらっしゃったということを知り、
いくつか質問させていただきたいと思いメールさせていただきました。

金丸鉱山が衰退し閉山した理由

「長石」の採掘量の推移

・どのような仕事をしていたのか

鉱山付近の集落の様子

また、写真がありましたら見せていただけるとありがたいです。
お忙しいところ大変恐縮ですが、回答よろしくお願いいたします。



ホームページご覧いただきありがとうございます。

金丸鉱山の質問をいただき、若い方が鉱山という産業に
興味を持っているので嬉しく思います。
閉山、会社解散からかなりの年数が経過し、関係者も多くは亡くなり、
資料もあまり残っていませんが、当時を思い出しできるだけお答えします。

金丸鉱山が衰退し閉山した理由

※今回編集し、このページに「沿革」としてまとめました

「長石」の採掘量の推移を教えてください。

退社してかなり年月が経過していて、当時の資料は殆どありません。
通商産業省の統計資料を調べたらわかるかもしれません。
金丸ペグマタイト鉱床は「長石」と硅石の推定埋蔵鉱量約2百万トンを越えて
本邦第2位の埋蔵規模を誇り、硅石を殆ど含まない良質なカリ長石の鉱床
としては日本一の埋蔵量・生産量です。

島根県の馬谷城山鉱山と金丸鉱山で国内の9割以上の「長石」生産量でした。
かなり古い資料では、上野三義「新潟県金丸鉱山のペグマタイト鉱床について」
ネットで閲覧でき、1959~1965年までの生産量が記載されています。

生産量推移

1967年地質調査所月報18 上野三義
 「新潟県金丸鉱山のペグマタイト鉱床について」より抜粋


年次 生産量(t)
1959年10,142(t)
1960年15,308(t)
1961年 17,550(t)
1962年16,555(t)
1963年18,392(t)
1964年20,193(t)
1965年
21,398(t)


昭和22年から坑内採掘により「長石」を生産し、最盛期(昭和39年~昭和49年)の
10年間は20数万トンを生産。


平成の生産量は年産5千トン~6千トン程度でした。

平成6年の時点で残存鉱量は約160万トンと推定されます。

鉱山ではどのような仕事をされていましたか ?

私は大学の鉱山学部で採鉱を学んだので、坑内採掘から露天採掘に
切り換えるための仕事をしていました。といっても卒業して始めての
鉱山の現場ですので、先輩方から教わりながらですが。

鉱山付近の集落の様子を教えてください 

昭和39年~昭和49年の最盛期の頃は鉱山山元に小学校・中学校と集落が有り
38戸、93人が生活していましたが、鉱山の衰退に伴い作業員とその家族が新たに職を求めて
離村したため昭和44年に関谷中学校上ノ沢分校が、昭和50年に金丸小学校上ノ沢分校はそれぞれ閉校になりました。

私が勤務していた昭和62年頃は鉱山に依存する集落は全く無く、近辺では上ノ沢中流に、
山形県小国町越戸集落が有りましたが、羽越豪雨の被害で集団移転したそうです。

ここで昭和34年に原子燃料公社がウラン鉱を発見。原子燃料公社小国駐在員事務所を新設して
積極的に探鉱を行い、燐灰ウラン鉱、コフィン石の露頭を発見、鉱量の算定を行いました。
金丸鉱山も鉱区を出願していましたが、鉱山開発に至りませんでした。

昭和50年頃に索道を廃止してトラック輸送に切り替えてからは鉱山へ麓から作業員が
車で通うようになりました。金丸鉱山従業員は山形県小国町と新潟県関川村から、
越後金丸駅横の鉱山事務所と選鉱場に出社。採鉱員はここで、会社所有のジープに乗り換えて、
上ノ沢上流の金丸鉱山に通勤していました。

豪雪地帯のため、冬季(12月中旬~4月中旬)は鉱山までの道路は通行不可になります。
従って鉱山で採掘・運搬をする作業期間は7ヵ月しかありません。





左・初冬の金丸鉱山・1995年12月撮影

右・露天採掘場から見下ろす金丸小学校上ノ沢分校と鉱山集落跡地。
  鉱業所長邸は鉱員社宅よりも一段高い場所に建てられていたそうです・1995年撮影

冬季は採鉱員5名も春~秋に貯鉱した「長石」を越後金丸駅横の選鉱場で選別します。
金丸小学校上ノ沢分校があった頃は冬季は麓の町とも交通途絶するため、食料、日用品、
郵便などは索道で運搬していたそうです。鉱石を越後金丸駅まで運搬して、帰りは空になった
搬器に麓の町で調達した物資を運ぶのです。人間は保安上の理由で索道には乗れませんが、
運転員に頼んで乗り込む人もいたそうです。なにしろ山元(やまもと・鉱山のこと)から
越後金丸駅まで未舗装の狭い山道を約5キロ、国道を約1キロ歩かなければならないので、
かなりの大人達が通年で索道を利用していたそうです。

山元から上の沢に沿って国道113号に至るまでの道路は人一人がやっと通れるくらいの悪路で、
麓から歩いて帰ってきた、上ノ沢分校に赴任したばかりの若い教員が転落死するという痛ましい
事故もあったそうです。そのようなこともあり、索道に便乗する人はかなりいたそうです。
索道は人間が乗る事を想定していないため、安全装置も無く、雨天時も屋根はありません、
搬器から落下したら大怪我では済まないだろうし・・それにしても昔の人は強者ですね。

索道を廃止し(昭和50年頃?手元に資料有りません)、2トンダンプが通行できるように
道幅を拡張するまでは索道が鉱山の生命線でした。全国に鉱山集落がありましたが、急峻な
地形の鉱山の多くで鉱石運搬用の索道が物資の輸送と連絡用にも利用されていました。
今のように快適な舗装道路と性能の良いトラックが無い時代の輸送の主役は、山元では索道
平地では貨物列車でした。

戦前に金丸鉱山で産出されるタングステン、モリブデンは地元の山形県小国町の日本重化学工業で
消費されましたが、陶磁器原料の「長石」、珪石の大消費地は名古屋地区です。

米坂線が無ければ、運搬手段を持たない日本最大の「長石」鉱床もただの”石”です。

昭和11年の米坂線開業があってこそ金丸鉱山が誕生したといえます。

⑤写真がありましたら見せていただけるとありがたいです

当時はフィルムカメラで、現像と焼き付けが必要でした。
今のように気楽に写真を撮る時代でもなく、以前あった写真も今は見当たりません。

※このページの写真は当時カナマル株式会社のS社長から2021年に頂戴致しました。
 この場をお借りして改めてお礼申し上げます。

ご質問の回答から逸れますが、金丸鉱山の採掘場は、山形県と新潟県の境界付近で、
日本でも数少ない県境未確定地です。とはいえ上ノ沢小学校は金丸小学校の分校ですから、
行政上は新潟県という認識だと思います。
(※ややこしいことに原子燃料公社の地質図では山形県になっています・2021年追記)
鉱山に関係する税金の一部、鉱区税などは山形県と新潟県の両方に支払っていました。
県境未確定地だけでも珍しいことなのに、そこに鉱床が有り、鉱山が稼行されて税金の
問題が持ち上がり、鉱区をどこで線引きするかで両県の役人が互いに知恵を絞って
駆け引きしたのか、それとも玉虫色の決着をしたのか・・・
なかなか他所では聞かない面白い話だと思います。
長々と書き連ねましたが、ご参考になれば幸いです。

卒論頑張ってください。


※鉱山は企業ですので各種の税金を納税します。
 法人税、固定資産税は勿論のこと、特殊な税金として「鉱区税」「鉱産税」があります。
 「鉱産税」は産出する鉱石にかかる税金で、採鉱地の自治体に納税します。
 選鉱場が採鉱地と違う自治体に存在する鉱山の場合は事情がやや複雑になります。
 「鉱産税」は「山元価格」に課税されますが、採掘したばかりの”鉱石を含んだ土砂”は量も多く、鉱石の割合も
 その都度変わるため、価格未定です。選鉱でズリと鉱石に分けて、始めて鉱石の”量と価格が確定”します。

 A市に採鉱地があるけれど、選鉱場がB市の場合「鉱産税」の納税先はB市でしょうか?

 「鉱産税」の趣旨は”鉱物を採掘、運搬する際に、公共の道路や橋などの損傷が生じるため、鉱業者にその負担を求める”
 ですので、A市に何%、B市に何%それぞれ分配(その割合はA、B市で話し合い)して納税します。
 採鉱地がA市の地下、鉱石の搬出される坑口がB市選鉱場がC市の場合などのさらに複雑な例も有り、
 過去にはこの配分を巡って、A市とB市(或いはC市)の話し合いがこじれ、
 自治省の裁定に持ち込まれた金属鉱山の事例があります。

   「鉱区税」は最大面積350haの範囲に設定され、広大な面積の為に行政区域を跨ぐ例がかなりあります。
  この場合はそれぞれの行政域内の面積に応じて、それぞれの行政に納税します。



左・国土地理院の地図では採鉱地は県境未確定地になっています。

右・1963年地質調査所月報第14号の地質図では採鉱地・鉱山施設、新潟県の筈の
  関川村立金丸小学校上ノ沢分校はそれぞれ県境の東側の山形県小国町に・・・

  索道の経路、鉱山集落が記載されている今では貴重な地図です。






左・昭和42年(1967年)羽越豪雨(うえつごうう)で被災後建て直された越後金丸駅舎。
  駅付近には現在は人家は在りませんが、沿線の他の駅舎と比較してかなり立派です。
  最盛期にはこの駅に隣接した選鉱場で数十人が働き、2千トン/月の「長石」がこの駅で
  引き込み線から貨物列車に積まれ、主に中京方面に出荷されていました。
  当時のこの地域の繁栄ぶりをこの駅舎から偲ぶことができます・2015年7月撮影


右・越後金丸駅ホームには当時の鉱業所長から寄贈された「長石」が今でも置かれています。
  平成の初め頃までこの駅には急行「べにばな」が停車していました。
  この急行「べにばな」は新潟駅で新幹線と接続。東京~金丸鉱山の日帰りが可能でした。
  東京からの出張の際に急行「べにばな」を何度か利用しましたが、乗降客はいつも私一人。
  鉱山保安検査や許可申請で、通産省関東東北鉱山保安監督官をお迎えする時も、やはり
  急行「べにばな」から降りて来るのは監督官1名だけ・・・
  まさか・・とは思いますが金丸鉱山訪問客のための急行列車だった???2015年7月撮影



〜鉱山の思い出話⑤-雪中の救出行〜

故K所長とH土建粂太郎社長から聞いた話です。

鉱山が冬季休業に入る最後の日、鉱山施設に冬支度をして山を下りるのですが、
この日は午後から雪の降り方が急に強くなりました。金丸駅横の事務所から
山元に「早く下山するように」と電話し、了解した採鉱員は早めの下山を開始。

しかし夕方になっても事務所に到着しません。雪は尋常ではない降り方で、
「大雪だから今夜は山元に泊まることにしたのかも」と考えましたが連絡は無いし、
山元にもう一度電話しますが、誰も出ません。下山しているのは確実です。
そこでH土建の粂太郎社長に連絡して重機で救援と除雪に向かいました。

視界が全くないほどの吹雪で、長年新潟県で暮らした二人にも救出は容易ならざる
事態であることが実感されたそうです。懸命に除雪を進めて少しずつ山元へ進みます。
気温もみるみるうちに低下しますが、下山している筈の採鉱員には未だ会えません。
山元からダラダラ坂、越戸断層、イタドリ沢付近の区間は傾斜は40°を越える急峻な地形で、
当時は狭い道路しかなく、もし転落した場合、全員の「死」も覚悟したそうです。
深夜になった頃、ようやく「長石橋」の辺りで向こうから歩いて下山する懐中電灯の
灯りが見えたそうです。あまりの雪に車を置いて徒歩で、腰をも上回る雪を掻き分けて
ようやく辿り着いた採鉱員達と抱き合って安堵と喜びで全員涙を流したそうです。

〜鉱山の思い出話⑥-温泉の徴候〜

故K所長から聞いた話です。

金丸鉱山で使う電気は小国町舟渡から分岐する送電線で送られ、山神社下の変電室で
受電されます。冬季休業がもうすぐ終わる春先に送電線の点検に従業員がスキーを使って
山元から小国町舟渡まで目視で電線と電柱の点検作業を行います。その際、ある電柱の
付近だけは必ず積雪が少なく、雪解けも他よりも早いのだとか。

そこだけ熱源が有り地温が高いことが推定できます。

私には資金も事業欲も有りませんが、温泉開発に関心ある方なら飛びつくような事象ではあります。

〜鉱山の思い出話⑦-今度は宇宙からの来訪〜

1977年(昭和52年)5月10日21時30分、大火球が会津若松市上空で大音響とともに分裂して、
小国町上空で消滅しました。目撃証言から推定落下地点は越後金丸駅の北東から新潟県境
にかけての地点。まさに金丸鉱山~小国町越戸のウラン鉱徴地周辺です。
早速、国立天文台のスタッフを中心とする捜索隊30数名とアマチュア天文家による捜索が行われ、
熊の出没する山中にマタギも驚くほどの大人数が入って探しましたが山深く、谷険しくて
枝の折れた樹木や、焼け焦げた場所は見つからず、夏を迎えると捜索は一層困難になり、11月まで
数回に渡り捜索しましたが、推定落下地域の20%程を捜索しただけで打ち切られました。

当時の鉱業所長が捜索に協力、山元事務所を休憩所として提供したこともあったそうです。
金丸の山中で隕石は発見出来ませんでしたが、この騒ぎで多くの人達が隕石の特徴を報道で
知ることになり、50年以上も発見者が保有していながら隕石と気付かなかった、天童隕石、
長井隕石が世に出るきっかけになりました。

今ならドローンを使って上空から捜索すると何等かの痕跡が見つかったかもしれませんね。
私も金丸の山中を歩く時はいつも隕石のことは念頭に置いていますが、地表に転がっているような
ものではなさそうだし・・・
温泉、隕石、ウラン鉱など、この金丸の山中は地質好きには魅力的な場所です。



索道にまつわる話〜

エピソード①

戦後まもなくの頃、カナマル株式会社S社長が鉱専時代の地質実習時の話です。


談:金丸山神社に相撲の土俵があって、山神祭にはそこに皆が集まり酒宴を楽しんでいた。
  酒に酔った若者の一人が暴れて(町の方から来た流れ者?)、皆が困って、誰かが
  「相撲の強い八幡さんを呼んで!」と言い索道場に連絡、しばらくして索道場の運転員が
  「もう直ぐ来るぞ!」と叫ぶ。皆が索道場に近づく搬器を注視していると、麓から呼ばれた
  八幡さんが搬器の端に腰かけ、片足だけを出しながら、悠然と近づいて来る。


   まるで映画で見る当時の人気ヒーロー”丹下左膳”が登場する場面のようだった。

  八幡さんは些かも動じることなく、固唾をのんで見守る皆の眼前で、
  その暴れ者をいとも簡単に土俵下に転がした。


エピソード②

 私が勤務時のK所長は、以前は家族で水鉛沢横の集落の社宅に暮らしていて、
 子供達は上ノ沢分校に。索道廃止後は坂町に家を建てて通勤されていました。
 この集落の人達が索道を利用していた話を聞いたのは故K所長からです。

 御本人は勿論のこと、金丸駅横の選鉱場で働く女性達の中にもかつての利用者が居て話を伺うと、
 昭和20~30年代は索道場に行って「麓まで行きたい」と運転員に頼むと、簡単に乗せてくれたそうです。
 と言っても女性の利用者はさすがに少なく、その方の時は搬器に運転員が座布団を敷いてくれたのだとか。
 それを横で聞いていた同僚が笑いながら「あんたは美人だから。座布団は本当は所長待遇だよ」
 と混ぜ返すと一同大笑い。
 乗り込むと搬器に目印の「手拭い」を結び、搬器にはそれぞれ「番号」が付いていて、運転員がそれを
 越後金丸の選鉱場に電話します。


 新聞、郵便は空になった搬器で運びますが、庶民の家庭に電話などなかった時代、
 この電話は鉱山と集落~越後金丸を繋ぐ唯一の通信インフラです。


   さて、いざ乗り込むと索道は支柱を通過する度にガタンと揺れるそうで、大抵の人は下を
 見ないようにうずくまるのですが、中にはくわえタバコで悠然と乗り込む強者もいるのだとか。
 越戸の山を下り、現存するあの高さの八ツ口の鉄塔から一気に高度を下げ、荒川を渡り、
 国道、米坂線を越えるのが最大のスリルというか恐怖だったそうです。
 その辺りから選鉱場の運転員にも、目印の「手拭い」搬器「番号」が目視できるので徐々に減速。
 搬器はホッパーの上に来ると自動で底が開くので、その直前で停めて"乗客"を降ろすそうです。

 山深い、冬季は交通の途絶する厳しい環境の鉱山で集落の女性の方にまで、鉱山が便宜を図り、
 本来なら決して人が乗ってはいけない索道を利用するためのローカルルールが存在した話は、
 鉱山が閉山し、関係者の多くが亡くなった今だから明かせる、本当に大昔の話です。
 労働災害は今よりもずっと多かったですが、昔の鉱山の皆さんはおおらかで、
 この話なんだかほっこりしていて私は好きです。



アマゾナイト(天河石)の発見〜




左・金丸鉱山大切坑ズリより採取のアマゾナイト
 黒雲母の集合体の接触部から長石が緑色になり、黒雲母から離れるに従い通常の長石の色に戻っています。
 長石特有の劈開がはっきりとみえます・1989年採取

右・向きを変えて撮影。両端はアマゾナイトで中央部の黒雲母から離れた辺りから、
 徐々に普通の長石の色に変わっています・1989年採取


当時、毎日大切坑ズリの前を通り山元事務所に通っていましたが、ある日ズリの所々に真っ黒な廃石が有るのに気づきました。
白い石英、肌色の長石、黄土色の細粒黒雲母花崗岩から成るズリにその黒色は目立ちました。
細粒黒雲母花崗岩よりも明らかに色が黒く、黒雲母の集合体ともいうべきものです。
点在するこの黒雲母塊を幾つか拾い上げると、そのうちの一つに緑色の長石が!アマゾナイトです!

我が国の他の産地では水色~青色を呈するようですが、金丸鉱山産のアマゾナイトは濃緑色を呈しています。

黒雲母の集合体と細粒黒雲母花崗岩がどのように接しているのか解らないので、五号坑開削時に出た廃石なのか、
鉱体中に存在して採掘されたものか不明ですが、どこかに黒雲母に富む部分があってそこに接した長石がアマゾナイト
だったのです。
アマゾナイト(天河石)の産地は日本ではあまり知られていませんが30年以上前に採取したこのアマゾナイト(天河石)
ネットのおかげで皆さんに知ってもらえました。
鉱物情報サイト、文献では紹介されていないようなので"新"産地・・・と思いきや、2022年頃の土砂崩れで大切坑ズリが大規模に流出。
僅かに残ったズリの上にも草木が繁茂し、今では"幻"の産地となってしまいました。


〜2か所の観世音鉱山


モリブデン(輝水鉛鉱)採鉱の観世音鉱山

 観世音鉱山は採掘鉱種の変更により採鉱地が大きく移動しています。
 水鉛沢を少し登った右側斜面に観世音鉱山の坑口が在りました。ここは細粒黒雲母花崗岩を
 貫く脈状ペグマタイトに伴うもので鉱体規模が小さく、モリブデンの採鉱は長続きしませんでした。
 ここのモリブデン採鉱跡は1990年当時、半ば埋もれた坑口とその周囲に試掘跡を見る事ができました。



タングステン(鉄重石)採鉱の観世音鉱山

  タングステン(鉄重石)の観世音鉱山1967年地質調査所月報18 上野三義  新潟県金丸鉱山のペグマタイト鉱床について」によると
 ”昭和12年頃から当地域の長谷沢上流で発見された含タングステン石英脈開発のために~”と記載されています。
 故K所長から聞いたのは、「長石」の採掘場所とは反対側、不老峰を越えた場所にタングステン観世音鉱山が在り
 ここでタングステン鉱(鉄重石)が採鉱、選鉱され、戦中、戦後と観世音鉱山の主力採鉱地でした。

 従って、水鉛沢と長谷沢上流、この2か所を併せたのが観世音鉱山です。

 私は「タングステン観世音鉱山」には行ったことはなく、故K所長だけが場所をご存じでした。

 観世音沢、水鉛沢、転石沢、長谷沢、不老峰は何れも鉱山関係者が付けた名称で、地図には記載されていません。

 ※関川村刊行「2003山岳・渓流地図」に「チョウナ沢」と「長谷峰(チョウナ)」と記載されていて、チョウナ沢=長谷沢と思いたいのですが、
  この地図の地名説明欄に”チョウナとは手斧のこと”とあります。

 その為、私は長谷沢を特定出来ていないので、「タングステン観世音鉱山」の場所は未だに不明です

チョウナ沢沿いに2か所推定のタングステン観世音鉱山

 1990年頃、かなりの釣り人が山神社下の空き地(土俵跡)まで車で早朝に来山し、そこから尾根道を通り
 不老峰を越えてチョウナ沢~女川で「尺イワナ」の釣果を競っていました。
 釣行を終えた釣り人に聞いたところ「倒壊した建物とレールが残っている」とのことでした。

 故K所長の談では「不老峰の尾根を越えて降りると観世音鉱山」でしたので、現「大切坑」を通り抜けた場所が
 観世音鉱山とした場合を”推定採鉱地・A”としました。

 最近まで私は推定採鉱地・Aと思い込んでいましたが、ある論文をネットで閲覧してからその自信が崩れました。
 論文「羽越地域の花崗岩体に伴う鉱床群におけるビスマス鉱物相と花崗岩系列との対応関係・五十公野裕也」
 の地図上には観世音鉱山の位置が「大徳鉱山」の真南に示されているのです。



上・上記論文より引用の地質図

 釣り人のレール跡の談と、長谷峰が近くに在る事も含めて、「大切坑」坑口から軌道を仮定し、軌道でチョウナ沢を下った場所、
 長谷峰の麓を”推定採鉱地・B”としました。

 下の地図には”推定採鉱地”をそれぞれ2か所、離れていますが記入しています。

 上記論文によると観世音鉱山の鉱床は”グライゼン化した石英脈で輝水鉛鉱、錫石などが伴われる”と記載されていて、
 このホームページを作るようになってから急に関心が湧いて来ました。
 もしかしてトパーズが見つかるかも・・・と期待に胸が躍ります。

観世音鉱山以外のタングステン鉱、モリブデン鉱の採鉱地

  

上・金丸鉱山付近の採鉱地・関川村刊行「2003山岳・渓流地図」に加筆

※戦前~終戦の1945年まで、転石沢ではタングステン鉱石(鉄重石)の採掘、試掘が行われていましたが、
 数か所の浅い堀り跡で、小規模だったようです。

 不老峰を越えた女川水系には関川村刊行の「2003山岳・渓流地図」によると
 女川水系の五淵ノ平南側にはタングステンの「大徳鉱山」(稼行年1940年頃~1945年)が記載されています。

 



上・地質図「村上」に記載の採鉱地

 地質図「村上」に記載では
 さらに上流のフタマタに鉱山名不明ですが、タングステンモリブデンの採鉱地が在ります。

   その他には金丸鉱山の南側、下ノ沢水系の
 金堀沢、オオクズホリ沢付近にタングステンの採鉱地が記載されています。

 オオクズとは砂鉄の古い名称だそうで、金堀と併せて金属鉱脈の在りそうな気配がします。
 それにしても、よくこんな山奥に分け行って鉱床を発見したと思うと先人達に頭が下がります。


古地図から観世音鉱山を推察




上・昭和38年測量の国土地理院旧版地図には、鉱山集落、上ノ沢分校から、不老峰の尾根を越え、
  チョウナ沢、女川、大徳鉱山、蕨峠へ至る道が記載されています。

 チョウナ沢を辿る道は不老峰の尾根を越えると”推定採鉱地・A”を過ぎた辺りから右岸を下ります。
 道が鉱山から逸れて通るとは考えにくく、右岸の「大徳鉱山」と共に、観世音鉱山も右岸ということになり、
 地図上では「大徳鉱山」との距離が近くなりすぎて、”推定採鉱地・B”に疑問符が付きます。

 論文の”地図の縮尺が小さい”ため、詳しい位置関係の把握が難しく、”推定採鉱地・B”は私の読み違いかも知れません。

 そのため私は今でも観世音鉱山の場所は”推定採鉱地・A”と思いたいです。

 越後金丸駅横の事務所の壁に貼ってあった地図を、故K所長が指し示したのは、”推定採鉱地・A”の辺りだった記憶があるのです・・。
 どうして1990年当時観世音鉱山へ行かなかったのか・・悔やまれます。

 



〜露天採掘場へ行くには〜





左・ベンチカットされた露天採掘場跡・2021年撮影
右・露天採掘場へ至る最短登攀ルート

かつての運搬道路は草木が繁り、距離も約2kmと長いのでお勧め出来ません。
観世音沢、水鉛沢はズリが堆積しているうえに傾斜が急で登攀は不可能です。
山神社裏から尾根伝いに3号坑を経由する微かな踏み分け道があります。
道を辿れば3号坑までは比較的容易に行けます。3号坑から先は採掘に伴う
土砂が崩落しているうえに、積雪で灌木の枝が下に向いて障害となり、
ここが最大の難所ではありますが・・・
この道は昔は不老峰を越えて観世音鉱山へ通じていました。

あとがき



鉱山の仕事を辞めてからも、初夏に咲くタチアオイの花を見ると金丸鉱山を思い出します。
飯豊町から小国町、越後金丸、関川村と国道113号線沿いにあちこちでタチアオイが咲いていました。
ちょうどこの時期に金丸鉱山では露天採掘への準備作業が佳境を迎えていました。

20代、最も楽しく充実していて、思い出深い出来事が金丸鉱山での仕事でした。

不思議と何度か金丸鉱山の夢を見るようになったのが2021年の初頭。
豪雪地域故に冬季は訪問も叶わず、ひたすら雪解けを待ち5月の連休明けに
居ても立っても居られなくなり32年ぶりに金丸鉱山を訪問しました。
融雪で林道は荒れ果て、最初の砂防ダム付近に車を停めて歩くこと約4km。
草木に覆われた鉱山跡にようやく辿り着きました。鉱山施設は既に無くて、

閉山から僅か十三年で草木に覆われ、あまりの変わり様に言葉を失いました。

入坑する際に必ず帽子をとって無事を祈願した山神社は倒壊していて、涙しました。
山神社裏から3号坑を経由する尾根伝いの微かな踏み分け道を辿り、ズリを登攀し、
へとへとになりながら嘗ての露天採掘場に着いて思わず歓声を上げました。
若き頃は毎日この道を20分で登ったのを思い出し感無量でした。

草が繁り道が辿れなくなる夏場を除き、あれから数回訪れました。

本格的な雪になるまでにあと何回行けるか・・・

金丸の山々には今でも私を引き付ける「力」があります。


2021年10月24日記す

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