鉱山用語と鉱山の面白い話

鉱山用語と鉱山の面白い話



このページでは消えゆく鉱山に関する用語や面白い話を紹介します。
かつてこの国に栄えた鉱業には多くの人達が関わったが故の面白い話がありました。


 ※2023年11月 ページ更新のお知らせ

 このページはお世話になった、金丸鉱山の故佐々木社長が闘病中に、
 懐かしい鉱山の話を、読んでもらって元気になれば、と思い書き始めました。
 逝去された後も「鉱山の話なんて、今時読む人もいないだろうな~」とやや自虐的になりながらも、
 暇に任せて書き続けた、写真も無ければ、やたら文字数の多いこのページ。

 なんと感想メールを2023年1月にいただきました!ありがとうございます!
 嬉しくて、調子に乗ってまた小話を追加しました。ご覧ください。


2023年2月更新 〜鉱山のおもしろ話⑨-金属鉱床発見の手がかり"ヘビノネゴザ"

2023年2月更新 〜鉱山のおもしろ話⑩-当たれば一獲千金!"鉱山成金"

2023年3月更新 〜鉱山のおもしろ話⑪-鉱物の鑑定法はいろいろあれど、通は"味を見る"

2023年3月更新 〜鉱山のおもしろ話⑫-私の出会った"平成の鉱山師"

2023年4月更新〜鉱山のおもしろ話⑬-真面目に探鉱した人に"鉱山(ヤマ)の神"が微笑んだ!?〜
※この小話は岡山県の"やす"様から戴いた資料を参考にさせて頂きました。貴重な資料ありがとうございました。

2023年4月更新〜鉱山のおもしろ話⑭-鉱物の神様が降臨する時!!〜

2023年5月更新〜鉱山のおもしろ話⑮-"オパール"に魅せられた話〜

2023年5月更新〜鉱山のおもしろ話⑯-先輩から後輩へ語り継がれた砂金産地?

2023年7月更新〜鉱山のおもしろ話⑰-この木なんの木、"実"のなる木"鉱山"から派生した様々な業種〜

2023年7月更新〜鉱山のおもしろ話⑱-"金"の分析には"古くて新しい"黄金色に輝く"灰吹法"〜

2023年11月更新〜鉱山のおもしろ話⑲-鉱山会社社員、商社マン必携!名解説書「鉱産物の知識と取引」-"鉱山"から産出された鉱産物のバイブル~



    〜鉱山のおもしろ話①-かつて日本の鉱業界は鉱山師(やまし)が跳梁跋扈〜

 ある日、金丸の粂太郎さんが興奮した面持ちで事務所に駆け込んで来ました。
 「Kさん!金鉱石を見てくれ!杁差(えぶりさし)金山の金鉱石と鑑定書だ。」
 粂太郎さんの知人が以前に、ある鉱山師から杁差金山の鉱業権(鉱区)を買ったそうで、
 その際渡された「金鉱石」と、その購入者が分析を依頼した結果でした。
 その鉱石には定番中の定番、黄鉄鉱がギラギラと輝いていました。
 分析結果は果たして、鉄が殆どで、銅、鉛は「微量」、、銀は「痕跡」・・・
 その方は500万円で鉱業権を購入したそうですが、当時はどこの県にも鉱山師がまだ居ました。
 各地の通産局を舞台に鉱業権登録でトラブルをかかえた”腕の立つ”鉱山師が活躍中でした。
 ある程度資産を持っている方に言葉巧みに鉱業権(試掘又は採掘権)を売りつけるのです。

 昔の資料を見ていると鉱区所有者には政治家、芸能人などの著名人の名前が散見されました。
 そもそも鉱山師から譲り受けた鉱業権が偽物の場合もあるので、通産局の鉱区一覧又は鉱業原簿などで
 調べる必要があり、取得後の鉱業権の延長などの作業は一般人では難しいので、”鉱業界の行政書士”
 プロ集団の鉱業事務所に依頼するという方法もあります。
 かつては各地の通産局の近くには鉱業事務所が軒を連ね、これはこれで懐かしい昭和の風景でもありました。

 鉱山師といっても大きく分けて2タイプ有り、あまり鉱業権、地質・鉱床の知識が無くとも”一山当てよう”という
 動機だけで千古斧鉞を知らぬ奥山に分け入り鉱床露頭を発見し、本邦の鉱山業に多大の貢献をした先人達。

 別のタイプは鉱業権、鉱物の知識が相当有り、鉱量枯渇で放棄された鉱区や鉱床賦存の見込みの無い
 鉱区を高値で売りつけるのです。
 その際の決め台詞は大抵が、関東は「大久保長安の隠し金山だよ~まだまだ金鉱石が残っているよ」
 これが東北になると「藤原三代~」、中部は「信玄公の~」、関西は・・・

 ~古典的な鉱山師の手口~

 前記の例のような一般人の場合は「黄鉄鉱」などを見せれば騙される方々が一定数居ますが、
 相手が少し慎重な人ともなると”敵”も頭と小技を使います。
 昔の古典的な手法で有名なのは"カモ"を廃坑に連れて行き「旦那、これが例の金鉱脈です。
 疑うなら〇〇帝国大学で分析してもらったらどうですか?」といいながら持参の杖で金鉱脈を指し示します。

 この杖には塩化金酸が仕込まれていて、或いは鉱石を渡す鉱山師の軍手に塩化金酸を浸み込ませています。

 その鉱石を持ち帰り、〇〇帝国大学の分析結果を見た”旦那さん”はあまりの高品位に腰を抜かすくらいビックリ!

 とはいえ鉱石サンプルは分析に出す前に泥などを洗い流すだろうし、〇〇帝国大学も、自然界に在り得ない
 分析値の場合は意見書を添えると思います。
 この明治~大正頃の手口はあまりにも有名で、小説などが元かもしれません。

 昭和後期の頃は鉱山買収で鉱山技師が鉱石サンプルを持ち帰る際は鍵付のジュラルミンケースが常識です。

 理由は、鉱山の多くが山奥で日帰りは困難なうえに、鉱山師が策略を巡らし、鉱山技師をあれこれと連れ回します。
 気が付くと辺りは日もとっぷりと暮れた夕闇。そこで村に一軒しかない宿に泊まるのですが、ここから鉱山師の本領
 が発揮されます。鉱山師は「先生。どうですか?一杯」としきりに誘ってきます。勿論酒席はダメ。
 これは会社の上司から厳しく注意を受けています。鉱山技師は仕方なく侘しい晩御飯を一人で済ませ床へ。
 さて、最初の鉱山師の誘いをうまくかわした鉱山技師君は睡眠中も油断できません。

 なぜなら寝てる間に忍び込んだ鉱山師がリュックに入れた鉱石サンプルに”塩化金酸の注射”をするのだとか。

 リュックは布製なのでいくら口をしっかり縛っても、注射針は容易に貫通します。

 この話、「鉱山評価」の講義で先生から、他には実習先の鉱山でも聞いたので騙された先例があったのでしょう。

 こういった”輩”が鉱業権の売買を繰り返したり、有望地域の鉱業権を鉱山会社よりも先に取得し高値で売る事例が相次ぎ、
 鉱業の発展が妨げられ、鉱山業本来の姿が歪められることにより、世間の印象では”鉱山業というのはなにやら危なく、
 投機的だ”というイメージが定着しました。

 現在、我々が日常的に使っている「ヤマをはる」「ヤマをかける」「ヤマがあたる」などの言葉は鉱区の登録から来ました。
 「山気(ヤマケ)がある」は”この辺りに鉱脈がありそうだ”という鉱山師の直感から来たものと思われます。

 昔から「三師三方に嫁をやるな」と言いますが、三師とは「鉱山師」「詐欺師」「請負師」
 三方は「土方」「船方」「馬方」だそうです。三方の方はちゃんとした職業で、今では考えられないひどい職業差別ですが、
 三師の「鉱山師」は「詐欺師」と同格(=犯罪者)に扱われていてなんだかガッカリです。


~鉱業権の用語~



「試掘権」

 試掘権は一度取得しても更新時期に然るべき手続きをとらないと権利を失います。
 期間は2年間、2回まで延長可。従って最大6年間試掘する権利があります。
 鉱区税等を毎年納め、2年毎に”試掘した調査報告書”を通商産業局に書類を提出します。
 従ってこの期間内に探鉱する必要があります。探鉱の方法は資金の必要な試錐や坑道でなく、
 地表探査などでも良いのですがとにかく真面目に探鉱すること。

 資源は国家の財産であり開発が適宜行われるならその鉱床の価値はさらに増し国家財政に寄与しますが、
 いたづらに時を浪費するなら国家に与える損害は計り知れません。
 ”名乗りを上げた者はこの区域の価値を速やかに明らかにせよ”ということなのでしょう。
 更には虚偽申請が明らかになれば権利が取り消されます。


 この試掘権の期間に探鉱して企業化の目途が立つと採掘権の登録に進みます。




「採掘権」

 採掘権は有効期限が無く永久ですが、ここに至るまでの手続き、資金、労力はなかなか大変です。
 一般人が仮に鉱山師から試掘権を譲り受けたとしても、最初の2年の期限の書類提出で断念するだろうし、
 採掘権を譲り受けた場合でも更新の手続きを期限までに行わないと権利を失います。

 更には平成24年の改正鉱業法では”技術的能力と経理的基礎を有する者”にのみ権利が与えられるようになりました。
 先願主義に基づく出願手続きも見直され”最も適切な主体が鉱業権の設定の許可を受ける”に改正されました。

 これまで悪徳鉱山師によって適切な資源開発が妨げられていましたが、この改正鉱業法によって然るべき企業法人
 のみ資源開発が行えるようになりました。しかし時すでに遅しの感がします・・・・



「租鉱権」

 採掘権をAが所有していて、BがAからこの鉱区内の鉱物を採掘する場合の権利。
 租鉱権は鉱区の全域について受ける事はできず、採掘鉱種も1鉱種に限られています。
 さらにCが、Aから別の鉱種の採掘許可を得ることもできます。
 この租鉱権は、小規模経営者が乱立する国内鉱業の特殊事情から生まれた特別措置のようです。
 租鉱権の存続期間は5年間、鉱業権者の同意があればもう1回延長、最長10年間です。

 

〜鉱山のおもしろ話②-鉱山師のバイブル、西洋は「デ・レ・メタリカ」、本邦は「山相秘録」、鉱山主には「坑場(かなやま)法律」〜

 16世紀のドイツで探鉱から採鉱、冶金まで多岐にわたって書かれた「デ・レ・メタリカ」には探鉱法として、
 二股の木の枝を持った男の挿絵があります。所謂「ダウジング」です。
 探査精度?確度?は不明ですが、最近まで日本でも埋設されたガス管、水道管の探知にも使われていました。

 
 この「デ・レ・メタリカ」と我が国の「山相秘録」は多くの鉱山関係の専門書で紹介されていました。

 「デ・レ・メタリカ」のほうが鉱業全般についてかなり科学的に記述されていますが、ここでは我が国の
 「山相秘録」と「坑場法律」について紹介したいと思います。
 
 江戸時代、今の秋田県の佐藤信景が口述し、孫の佐藤信淵が書物にした「山相秘録」は
 本邦の鉱山師のバイブルとして有名です。

 鉱物の性質と、探鉱から選鉱、精錬まで一通り記述されていますが、この書を有名にしたのは”ある探鉱法”です。
 極めて科学的ではない方法で、残念ながらこの一点で書物の評価が下がる気がします。

 現代人にウケたのは「中夜望見の法」と言い超人的な能力で鉱床を発見する秘法です。
 五月から八月、月の無いよく晴れた夜に二十町以内の山の南から見ると、”金の精は華の如く、銀精は竜、
 銅精は虹、鉛精は煙、錫精は霧の様で、鉛精は風に随い錫の精は風に逆う
”・・そうです。
 夏の太陽が鉱物を熱し、雨で地中の鉱物が蒸され、鉱物が特有の精気を空中に発散するのだと説明しています。
 戦国時代に発見された石見銀山は海上から立ち上る”光”がきっかけだったとか。
 山梨の黒川金山、伊豆の土肥金山も同じようにして発見されたそうです。とは言えあまりにも非科学的で、
 無理やり理論づけするなら鉱物が酸化する際の”酸化熱”で蒸気が発生して、”陽炎のように見える”のでしょうか?

 この鉱物の”酸化熱”を探査に使う”赤外線探鉱”が有りますが、品位と鉱床規模の劣る我が国では難しいようです。
 海外の”斑銅鉱”の巨大鉱床では山全体が紫~青に見えるそうですが、この場合は夜は見えません。

 ※この斑銅鉱や精錬したての銅地金の紫~青の鮮やかな金属光沢を鉱山用語で「トカゲ鉑(はく)」と表現します。

 ところでこの信景・信淵コンビ、「山相秘録」以外にも「坑場(かなやま)法律」という書物も書いています。
 「山相秘録」が鉱山技術の書とすれば「坑場法律」は鉱山の人事管理とマネジメントの極意を記しています。
 私は大学が秋田ということもあり鉱山学のテキストには「坑場法律」も記載されていました。
 鉱山は人里離れた場所にあり、重労働で、危険も多く、娯楽は少なく、昔も今も人の嫌がる仕事です。
 そのために囚人を労働力に使う例が日本でも海外でもありました。人事管理を誤り労働を強制すると
 暴動が起きたり、鉱山から作業者が逃げてしまい鉱山の操業はストップします。
 坑場法律」では、”鉱夫を惹きつける”ことが重要であると説いていて、この人心掌握術をかなり具体的に書いています。
 ただ少々残念なことにこの書は佐藤家の子孫に書かれたもので、門人に書かれたものではないようです。
 幸いなことに明治時代に刊行され、この極意を実践したかはどうかは別として多くの鉱山関係者に読まれました。

 鉱夫を定着させる門外不出のその極意とは、

 ”鉱山主は賢くなければないが、見た目は愚に見せかけ、慈悲深い者であること
 ”役人は情に厚く、見た目や、話し方が面白い者を選ぶこと。不愛想な者を選んではいけない
 ”鉱山直営の賭博場、飲食場、慰安所を設け、娯楽として博打と酒と美女を与えれば山は繁盛する
 特に有名で良く引用される文章は
 ”鉱山から博打を禁じたらこの世から金、銀、銅、鉄は消え失せるであろう”と断じています。

 と、ここまで読むと賭博場、飲食場、慰安所で、鉱夫に支払った給金を再び搾取するかのようですが、
 ”山神祭などの慰安行事を盛んに行い、善行者の表彰、祝儀などを行うように”とも述べています。

 細かいアドバイスは服装にも及びます。

 ”鉱山主以下、絹、紬は厳禁、ただし舞妓、遊女だけは例外で、彼女らの衣類、寝具は絹にせよ

 この方は鉱況悪化に備えてサイドビジネスにも言及しています。

 鉱山の慰安所にいる舞妓、遊女を求めて外から訪れ長逗留して散財する放蕩者は鉱山には「福の神」で、

 ”上客の「福の神」の場合は鉱山主自らもてなせ”と丁重な接客を求め、

 さらには

 ”精錬所では金、銀から装飾品を、作業所では鍋、釜、釘を作り外部に販売せよ”ともアドバイスしています。

 祖父の佐藤信景とその子、孫の佐藤信淵は親子三代の鉱山技術者で、信景が以前経営していた鉱山は
 大いに繁栄していましたが、別の経営者に変わったところ、鉱夫が逃げ出し、程なくして閉山したようです。
 自らの経験を基に極めて具体的で実践的な、現代にも一部通じるアドバイスが書けたようです。

 「山相秘録」はテレビや書籍で紹介されるのを何度も見かけます。
 しかしこの「坑場法律」が書籍で引用されているのは過去に2、3回しか記憶にありません。
 「山相秘録」だけが”例の探鉱法”で有名になってしまいましたが、「坑場法律」はもっと知られて良い書だと思います。

 ところで、鉱山関係の出版物といえば、私事ですが、学生時代と鉱山会社時代に鉱山に関する書籍を古本も含めて読み漁りました。
 当時は神田神保町に地質・鉱山書専門の古本店が有りましたが、今はどうでしょうか・・・
 高校の教科からも「地学」が消えつつあり、人々の鉱山への関心も無くなろうとしています。

 廃墟ブームで休廃止鉱山を訪れる人達はいますが”鉱山愛”に人生を捧げる人種はもはや「絶滅危惧種?」

 せめてもの救いは「ヒーリングストーン」「ミネラルショップ」などの鉱石、鉱物を扱う店が各地に出来ていることと、
 ネットでの鉱物販売やオークション取引も盛んに行われていて、愛好家が一定数存在することです。

 


 

~鉱山関係の用語~



「鉱石」と「品位」

 資源として利用される鉱物又はその鉱物を含んだ岩石のこと。
 岩石に含まれる有用元素などの含有率を「品位」といい、鉱石の価値を決定する大事な要素です。
 含有率が多いと「高品位」その逆は「低品位」と表現されます。

 例:分析値1tあたり100gの金を含む”高品位の金鉱石”

 以前、地元のTV番組のナレーションで「~この鉱山から掘り出された””は鉄道で精錬所へ運ばれ~」
 もうガッカリです。無価値な”石”をわざわざ運ぶわけもなく、この場合は”鉱石”なのですが
 あらためて鉱山用語は”死語”になりつつあるのを実感しました。

 

「新山(あらやま)」

 休・廃止鉱山ではなく、鉱床が発見され新たに開発される鉱山を「新山」と表現します。
 所謂”処女鉱山”のことで、埋蔵鉱量、品位、可採率を算定し、
 採鉱計画を立て可採粗鉱量を確定。そこから生産予想量と採鉱継続年数、
 年間予想収益を想定してこれから開発の始まる鉱山のことです。
 今の時代、我が国の鉱床規模、品位では新規の鉱山開発は難しそう。なのでこの「新山」も死語になりそうです。


 「山元(やまもと)」

 人里から離れた鉱山の場合、坑口、選鉱施設など、場合によっては事務所も同一場所に
 設けられる例があります。この一連の鉱山施設を含めて「山元(やまもと)」と言います。


 「鉱量(こうりょう)」の種類

 「埋蔵鉱量」:経済的に価値の有る鉱床の質量。
         金属鉱山の場合「建値」の変動に伴い鉱床の価値も変わります。
         即ち、金属価格が高騰すれば、普段は採算の合わない低品位鉱石も採掘対象になり、
         鉱量は増え、鉱山の寿命は延びます。

 「可採粗鉱量」:技術的、経済的に採掘可能な鉱石の割合を可採率といい、
          鉱床の賦存状況、岩盤の硬さによっても可採率が変化します。
          この可採率を用いて算定された、鉱床を採掘することによって生じる粗鉱の量。

 「確定鉱量」:坑道、坑井や試錐によって鉱石の存在が確認された範囲を”鉱画”といい、
          この鉱画内の容積と品位が決定された鉱床の質量(鉱量)。

 「推定鉱量」:”鉱画”で確定されていないが、探鉱及び鉱床の性質から容積と品位が推定される鉱床の質量。

 「予想鉱量」:地質学的考察と鉱床の性質で鉱石の存在が予想される鉱床の質量。
         極めて漠然とした鉱量で、特に我が国の場合、断層、褶曲で鉱脈が途切れることが多い。
 

  「採鉱実収率」

 実際に”採鉱された鉱量”と「埋蔵鉱量」との割合のこと。
 母岩と鉱床の関係、岩盤と鉱床の性質、鉱床の規模、状況などによります。
 どんな採鉱法でも100%の採鉱は不可能ですが、この数値は当然鉱山経営に直結するので、
 鉱床のタイプにあった採鉱法を採用し、常に実収率の向上に努めなければなりません。

 我が国の金属鉱山で高品位の脈状鉱床の場合は平均約70%~90%程度です。
 非金属鉱物の塊状鉱床の場合は保安上の理由で鉱柱を残すので平均約35%程度になります。

 昭和の後期、私が見学した秋田県の金属鉱山では、「鉱石持ち帰り運動」と称して、
 鉱員が作業が終わり出坑する際に、切羽周辺に取り残されている「高品位鉱石」を一人一個持ち帰り、
 それを投入するホッパーが坑口近くに備えられていました。
 全国の金属鉱山が「円高」による厳しい経営環境におかれ、こういった経営努力で危機を乗り越えようと
 奮闘していました。
 

 

  「ずり(廃石)混入率」

 実際に”採鉱された鉱石”中にどのくらい”ずり(廃石)”が入っているかの割合のこと。
 鉱脈と母岩との境界が明瞭で、鉱夫が入れる幅の鉱脈を技術と経験で丁寧に採掘した場合には
 「ずり(廃石)混入率」が下がりますが、脈状鉱床を採掘中に急に細脈になり、
 人も入れない位狭い鉱脈の場合は、周りの母岩も一緒に採掘するので”ずり”の混入が増加します。

 各地の休廃止鉱山に行くと、斜面に広大な”ずり”が拡がり鉱山の在り処が容易に判ります。
 鉱物産地で有名な鉱山に、古地図を頼りに藪漕ぎをし、尾根を越えて対岸の斜面を見上げると、
 そこには斜面一面に”ずり”が・・・思わず息を呑む瞬間で、目的地に辿り着いたのが判り、
 テンションはMax⤴!!足も早まります。この到達感も鉱物採集の醍醐味と言えましょう。

 

 


〜鉱山のおもしろ話③-衛星鉱床にも価値有り!寄らば大樹の陰〜

 江戸時代や明治時代から延々と操業している鉱山は全て、高品位で大型の鉱床を採掘しています。
 これだけの”大鉱床”が出来るからにはその周辺にも似たような鉱床が存在する筈です。

 巨大な”本(母)鉱床”の周囲を取り巻く”衛星鉱床”が実際に存在します。

 当然ながらこれらの大手鉱山会社は”本鉱床”には勿論のこと、その周囲にも自社の鉱区を所有しています。
 これを”保護鉱区”と言います。自社の財産を鉱山師などから守るために先願して権利を確定させたのです。

 狙いはこの”保護鉱区”の周囲です。ここに”衛星鉱床”が賦存する可能性が有るため、中小の鉱山会社と
 鉱山師は、大手が登録していない地域に鉱区を出願する例がかなり有りました。

 上手く鉱脈に当たり、操業が始まると近くの大手鉱山の精錬所に売鉱します。

 最大のメリットが、精錬所に近いために運搬費用も抑えられることです。

 なかには選鉱場を持たない中小或いは個人の鉱山が、粗鉱をそのまま売鉱する例もありました。
 大手鉱山会社が見向きもしない”衛星鉱床”は通常は規模が小さく、
 これを採鉱する会社も経営規模は小さいのが当たり前のようですが、
 小さい鉱山でも富鉱体(ボナンザ、直り)に当たり鉱山会社を上場するまでにした経営者も居ます。

 かつての山形県の産銅、金地帯での例ですが、そこも大手鉱山とその周囲に中小鉱山がひしめき合っていました。
 そこの鉱床は深部に行くほど銅が多くなり、地表部は逆に金の品位が高いという特徴の鉱床で、資本の無い個人は
 自ずと地表部の採鉱が主となります。個人で採鉱していたある方は、その、銀、銅の鉱山で、地表から
 少し掘り進めただけで肉眼で”自然金”が見える富鉱部に大当たりして会社を設立。
 その後も社業は順調で東京に本社を構え、全国に金属から燃料資源まで、数多くの鉱山を所有していました。
 社長さんは、とにかく”金山”にこだわり各地の休廃止金山を買い取り経営されていました。

 ””への関心は経営だけに留まらず、全国各地の金銀鉱石を大変な苦労と努力をされて収集されていました。
 国内で稼行されていた鉱山の金銀鉱石の殆どを網羅していて、学術的に貴重な日本有数のコレクションです。
 これらのコレクションは、バブル期、地価が日本一高い都心の一等地に一室を与えられ、
 自然金を主体とした金鉱石は燦然と輝き、訪れる人を魅了しました。

 これが人を虜にする””の魅力というか魔力というか・・・私には羨ましい限りです。
         


   

~採鉱関係の用語~



「切羽(きりは)」

 採掘を行っている現場のこと。露天掘、坑内堀を問わない。特に正面の最前線を切羽面と言います。
 この用語はトンネル工事、土木工事でも使われています。
 掘削作業は鉱山、土木を問わず共通なので「切羽」以外にも「切り上がり」「天盤(てんばん)」「踏前(ふまえ)」
 などの用語は全国の工事現場で使用されています。



「切り上がり」「切り下がり」

 「坑井(こうせい)」のうち、下部坑道から上部坑道へ向かって掘削したものを「切り上がり」。
 その逆は「切り下がり」。この2つは完成したら区別はつきません。
 あくまでも作業中に用いる呼称です。
 


「引立(ひったて、ひきたて)」

 坑道の最奥。掘削中の坑道の場合はそこの終点、この場合は引立=切羽になります。
 掘削期間中は切羽が前進するため、引立の位置が日々変わります。


「天盤(てんばん)」

 坑道の天井部分。頭の上にある全ての岩。母岩、岩盤だけではなく鉱石の場合も有ります。
 見上げると天井も鉱石だった場合、嬉しくてドキドキします。


  ※「上盤(うわばん)」と混同し易い言葉です。鉱体の境より上にある岩盤を「上盤」と言い、
  その反対の鉱体の下側の岩盤は「下盤(したばん)」と言います。
  

 
「踏前(ふまえ)」

 坑道の下の部分。足の下にある全ての岩。母岩、鉱石の場合も有ります。
 大規模な鉱体の場合、「天盤」も「踏前」も全て鉱石で、その場所に立つと気分が高揚します。
 

「透(す)かし堀り」

 鉱体や炭層を掘削する場合に、坑道の下部(踏前の付近)から掘削すると鉱体上部が掘削しやすくなります。
 これは鉱石が”自重”で落ちてくるためで、採掘費用を抑えることができます。
 この場合は「下透かし」で、天盤に近い上部を先に掘削すると「上透かし」、中央部が先だと「中透かし」
 この「透かし」を絶妙のタイミングで掘削する名人がどこの鉱山にもいました。
 程良く「下透かし」を行うと適量の鉱石が”ドサドサ”と落下します。
 これをローダーですくい、貨車へ、鉱石が無くなると再び「下透かし」を・・これを繰り返します。

 金丸鉱山の鉱夫K島さんがまさにその方。この方以前は山梨県の水晶鉱山に居たそうで、
 当時は水晶とその加工は山梨県の地場産業で県内のあちこちで採掘されていたそうです。
 いずれも小さい鉱山で、半年から1年位で掘り尽くす規模の石英脈を採掘後は、別の石英脈へ、
 或いは別の鉱山会社へ。鉱夫派遣会社に在籍していたために、転々と移動していたそうです。

 山梨県営、公社?の水晶鉱山もあったそうで、そこでの話です。
 ある時「下透かし」を行ったら上にぽっかりと”晶洞”が空いていたそうです。
 そこには紫水晶が成長していて、長年水晶堀りをしていた鉱夫K島さん達は始めて紫水晶を見たとか。
 その後は閉山まで紫水晶を見る事が無く、この時一度きりだったそうです。幻の紫水晶の産地ですね。

 
  

 
「追い切り」

 探鉱坑道などで最小限の断面で掘削した坑道を、採掘、運搬などの必要性が出てきて、
 後から断面を拡げることを「追い切り」といいます。
 

「竜頭(りゅうず)」

  坑道や切羽を保護するために、岩盤や鉱体の一部を柱として残す。「鉱柱」とも言われます。
  この部分の鉱石を保安の為に残すため採鉱実収率は30~50%に留まります。
  鉱体又は岩盤が堅固であれば鉱柱は細く出来るので、鉱石の採掘量を増やせます。
  人工的に「柱」を造れば、鉱石はその分多く採鉱出来ますが、費用対効果で判断されます。
  埋蔵鉱量と可採鉱量が大きく異なるのはこれも理由の一つ。



「走り(はしり)」

  掘進中の坑道を「走り」と言います。坑道の掘進方向を加えて使用します。
  北の方角に進む坑道は”北走り”。或いは、「この坑道は”西に走っている”」など

  この「~走り」が自然に口に出るようになればあなたはもう一人前の鉱山男。

  廃坑探索で仲間に「見たまへ、この西走りの引立に黄玉の脈が在りさうじゃないか」とか言うと
  一目置かれるのは間違ひなし。



 

〜鉱山のおもしろ話④-昔は運任せ?の鉱業ー技術は何処へ〜

 鉱山で採鉱をしていると時折、鉱脈が大きく膨らんで品位の高い場所にぶつかることがあります。
 「直り(なおり又はボナンザ)」と言い富鉱体のことで、鉱山ではこれに当たるとお祭り騒ぎ。

 東北のかつての某上場金属鉱山では鉱量枯渇のため、役員達が本社で真剣に”会社解散”に
 ついての会議をしていたところ、突如現場から”ボーリングで黒鉱の高品位鉱体にぶち当たった
 との吉報が届き、深刻な会議はどこへやら、大宴会になったそうです。

 当時は昭和30年代から急速に進んだ試錐技術により、秋田県北鹿地域に於いて地下250mを
 越える深部から、驚く程高品位で塊状の黒鉱鉱床が相次いで発見、新鉱山が次々と開発され、
 鉱業界は”黒鉱ブーム”の真っ只中。各社、秋田県内の鉱区に膨大な数の試錐を行いました。
 もちろん当てずっぽうではなく、少し前に完成した「秋田県全県地質図」で位置を絞り込みました。

 金丸鉱山のS社長もかつて鉱量枯渇で閉山の決定した愛媛県の大久喜鉱山で高品位銅鉱床を
 探鉱坑道で探り当て大久喜鉱山はさらに3年閉山を伸ばすことが出来ました。
 海外のキースラーガー鉱床の論文を参考に推定位置に「切り上がり」を実施したそうです。
 この2例は技術者が鉱床の存在しそうな地点を推定、そこに試錐や立入れをして「直り」を発見した成功例です。

 戦前までは大手鉱山会社といえども探鉱にはあまり力を入れず、特に中小、個人の鉱山では「直利」は
 全く偶然の出来事で、”神頼み””運任せ”ならぬ「直り」に社運をかける傾向が有りました。

 一に「建値(たてね)」、二に「直り」、三、四が無くて五に「技術」という鉱業を揶揄する表現が有ります。

 
 

~坑道関係の用語~



  
「しき」「間歩(まぶ)」

 坑道の古い呼び方。特に「間歩(まぶ)」は時代劇で佐渡金山、生野銀山などのシーンで使われます。
 多くの場合、金、銀の横流しで私服を肥やす悪徳代官が不正発覚を恐れ、助さん、格さん、御老公を
 〇〇間歩に閉じ込め、水没を謀るも1時間の放送枠に収めるためにあえなく悪事が露見し、弥七の風車が・・・・
 「坑場法律」が書かれたのが江戸時代後半ですから、こ奴ら悪代官が読んでいる筈もなく
 ましてや一子相伝、門外不出の書ですから、尚更です。


 坑口は「四つ留め口」、坑口から真っ直ぐ伸びる坑道を特に「本番」といいました。
  


「通洞(つうどう)」

 交通、運搬、排水、通気などの目的に使われる主要な水平坑道を「通洞」と言います。
 大切坑と似ていますが「通洞」のほうが坑道断面も大きく、通気のために両側が外に抜けている場合が多いです。

 恒久的な使用を前提に多くの場合コンクリートで仕上げられ、各地の”観光鉱山”の坑道はたいていこの「通洞」です。
 栃木駅の足尾銅山では街の地名に「通洞」が付けられ、わたらせ渓谷鉄道の駅名は「通洞駅」




「大切坑(おおぎりこう)」

 鉱山で最も低いレベルにある坑道。排水、運搬に使われるため一般的にかなり恒久的な作り。

 鉱山では「通洞」「大切坑」以外の坑道にも名称を付けますが、大手鉱山会社は「西一号坑」「大正坑」
 「上30m坑」など比較的地味で実用的な名称ですが、これが中小、特に個人の鉱山ともなると「歓喜坑」
 「繁栄坑」「金富坑」「勝利坑」などの、経営者がボナンザを期待するような名称を好んでつける傾向があります。

 これは鉱床も同じで、大手は「稲荷沢鉱床」「本坑鉱床」「下部鉱床」「北鉱床」などに対し、中小鉱山では
 「黄金栄鉱床」「万福鉱床」「花嫁鉱床」などが在りました。

 産出鉱石に”高品位を世間に誇るために名付けた”例もあります。
 京都府夜久野町の蝋石鉱山ではダイアスポアの高品位鉱石に「超特級鉱・世界一」と名づけていました。




「立坑(たてこう)、竪坑」

 地上から地下の鉱床に向けて掘削された垂直な坑道。交通、運搬に使われます。
 エレベーターを巻き上げ機で昇降させるために、「立坑」上部には巨大な”櫓”が設置されます。

 この”櫓”は鉱山のシンボルになり、各地の産業遺産ではメインの見学場所となります。
 福岡県の国営志免(しめ)炭鉱竪坑櫓は規模が大きく、重要文化財に指定されています。




「盲立坑(めくらたてこう)」

 ”盲”は今では差別用語です。鉱山では地表に坑口の無い坑道は全て「盲坑道」と呼んでいました。
 この場合は坑内に設けられた「立坑」で、当然、坑口は地表ではなく坑内です。

「坑井(こうせい)」

 坑内に設けられた「立坑」の一種で、上部坑道と下部坑道を連絡します。
 鉱床中に設けられる場合が多く、梯子を使って鉱員の連絡にも使われますが、主な用途は鉱石やずりの
 運搬です。資材の運搬や通気にも使われますが「立坑」が閉山まで使用される恒久的な造りなのに較べ、
 「坑井」はその付近の鉱石採掘が終了すれば役目が終わるので簡易的な造りです。

 廃坑探索では突然足元に穴が在るので、歩く際に最も注意を要する坑道です。



「斜坑(しゃこう)」

 「立坑」よりも安い費用で作れるため、小鉱山や探鉱に主に使われてきました。
 距離が長くなるので、坑道の維持や運搬効率が悪く、「立坑」に較べ不利とされてきましたが、
 軌道を使わず、ダンプが直接切羽に乗り入れる「トラックレスマイニング」方式の採用で見直されて、
 現在では大型ダンプの通行できる大断面で傾斜の緩い斜坑が主流となっています。

 余談ですが「斜坑」と言えば”鉱山ミステリー小説の大家”草野唯雄の九州の炭鉱が舞台の「影の斜坑」を思い出します。
 炭鉱の補助金の不正融資を暴く為に炭鉱に潜入した鉱山会社社員が、殺されそうになり、やがて次の殺人が・・・

 愛媛県のクロム・橄欖岩鉱山が舞台「北の廃坑」は「影の斜坑」同様に鉱山の不正を暴くため本社から潜入した
 社員。ところがすぐに身バレ。橄欖岩から意外な鉱物が産出しそれが不正に繋がるのを確信するも・・・
 冒頭に「〇〇鉱山は我が社のメタルマインである・・・」とあり、これは鉱山会社特有の言い回し。
 やはり作者は名門・明治鉱業に勤務されていたそうです。
 ところでこの鉱山会社の社員、頭脳明晰、体力頑強で精悍な顔つきのいわゆる”イイ男”
 モテない訳がない。このルックスに助けられ、周りも主人公をほっとけず・・・ネタばれするのでこのへんで。

 「交叉する線」は氏の鉱山ミステリー小説の原点で架空索道のトリックをベテラン刑事が見破る。
 実際にあった事件をモデルにしたそうです。
 草野唯雄の鉱山ミステリー作品は学生時代にハマりました。他にも数作品有りますが正統派はこの三作品。
 これらの鉱山ミステリーは、草野作品の中では一般人には人気が無く、ドラマになるような売れた作品ではなかったので、
 今では全て絶版になっているかもしれませんが・・・




「見合い」

 斜坑と水平坑道とが連絡する場所。



「プラット」

 立坑と水平坑道とが連絡する場所。プラットフォームの略



「𨫤押坑道(ひおしこうどう)」

 鉱山では鉱脈のことを「𨫤(ひ)」と呼びます。例:亀山盛𨫤、

 鉱脈に沿って走向方向に平行に掘削された坑道。採鉱、探鉱の際に使用されます。
 特に昭和以前の休廃止鉱山によく見られる「狸堀り」は鉱脈に沿って、人がやっと屈める
 最小限の加背で、方向を変え、アップダウンを繰り返します。
 最小サイズの坑道では掘削土砂などは”カッチャ(カッサ、カサ)”で掻き出し”もっこ”で運び出します。

 ところでこの”カッチャ(カッサ、カサ)”の刃の形 、「鍬(くわ)」の刃の形状が長方形に対し、
 逆三角形の形状をしていますが、この形状が驚く効果を発揮するのです。
 切羽から崩れ落ちる鉱石は、やがて緩やかな傾斜を形成して安定しますが、
 これを掻き出して集める際に「鍬」を使用すると、ものすごい力が必要なのに対し、
 ”カッサ”は尖った刃先を鉱石にあてて、少し手前に引くだけで鉱石がゴロゴロと転がり落ちて来ます。
 簡単で、実に良く出来た作業道具でした。
 今でも、砂金採りをする方達が愛用しているようです。
 
     


「加背」

 坑道や坑内作業場の断面のサイズ。
 昔は”横幅5尺、高さ6尺”などの尺貫法での表現でしたが、現在はmで表されいます。
 「トラックレスマイニング」方式では10mを越える大断面加背も有って、
 大型のダンプやペイローダーが坑内を走り回っています。


〜鉱山のおもしろ話⑤-これは運任せ?”建値(たてね)”〜

 「直利」という鉱床の状態に経営が左右されるのはやむを得ないことですが、
 金属鉱山の経営には”建値”というもう一つの重要な要素が有ります。
 金属の価格は英国・ロンドンの市場取引価格で決定されます。
  LME (London Metal Exchange)価格といい国内外全ての金属鉱山業がこの数値に一喜一憂、
 増資する場合もあれば、企業努力では如何ともしがたく倒産する場合もあります。

 我が国でもこの建値の高騰で、閉山が一転して大好況になった例や、採算の合わなかった低品位鉱床が採算にのり、
 鉱山の寿命が延びた例が多々有り、その逆のパターンも勿論有ります。

 国内の金属鉱山業は昔は1ドル360円の固定レートで操業していましたが、変動相場制になり、
 更なる国際競争にさらされ、低品位で、鉱床規模の小さい我が国の鉱山は次々と閉山しました。

 バブル期の頃、金価格が3千円を越え、鹿児島県菱刈金鉱山の成功も有り、金鉱山の探鉱、開発意欲が高まり、
 岩手県では北上と三陸の2か所で国内の会社が、石川県では外資がそれぞれ探鉱をしました。
 それ以上に”金鉱山への投資”を募る怪しげな会社も乱立し、やっぱり鉱山は胡散臭い”というイメージがまた再燃しました。

 その頃はまだ国内の鉱山会社には技術者と鉱員が現役で在職、鉱山操業の技術が連綿と続いていて、
 有望な探査結果と、資金の目途がたち、環境への対策をクリアすれば鉱山の開発が可能でした。
 令和の現在はその時以上の金価格の高騰で、世界的に金鉱山の開発と投資に関心が集まっているようですが、
 果たしてこの時代、この国で、国内の人材だけで新たに鉱山を開発することができるでしょうか・・・
 

~鉱床、鉱石関係の用語~



「直り(なおり)、ボナンザ」

 鉱脈、鉱床ともに全て均一な品位では無くて部分的に高品位の鉱石が農集している場合があります。
 この富鉱体を「直り(なおり)」、特に規模の大きなものは「大直り」とも「ボナンザ」とも言います。
 特に鉱脈と鉱脈が交叉した場所は特に高品位になる傾向があり、この場合は別に「落合直り(おちあいなおり)」と称します。

 「ボナンザ」は本来はスペイン語ですが、米国西海岸のゴールドラッシュで一般的になり、
 西部開拓時代のアメリカ映画にしばしば出てきて、ジョンウエイン主演の、その名も「ボナンザ」という有名映画が有ります。
 私の世代は「富鉱体」を使い、年輩の方達は主に「直り」、中高年の上司が「ボナンザ」を使っていた記憶があります。

 この「直り」、朝鮮半島では「のだち」と呼びます。かなり昔に欧米の鉱山技師が”自然金”が
 肉眼で見える程の高品位金鉱脈に当たった際に、作業員の盗掘を警戒し、
 「Don't touch!」→「no touch!」→「のーたっち」→「のだち」になったとか。

 

  「露頭」と「潜頭」

 鉱脈、鉱床が地表部の露出している場合「露頭」とよばれます。
 発見も容易で、昔から開発された鉱山は例外なく「露頭」か、そこから流出した転石から開発に至りました。
   表土に覆われた鉱床は「潜頭」とよばれます。この場合の発見は昔は困難でしたが、
 近年では地質図、化学図で目安をつけ、物理、化学探査で絞り込み、試錐で確認します。
 我が国では昭和30年代に秋田県北鹿地方で深度250mを越える試錐で次々と”高品位塊状黒鉱鉱床”を発見。
 近年では鹿児島県菱刈で金鉱脈を試錐で捉え、菱刈鉱山が誕生しました。

 「露頭」を発見するのは鉱山師にとって最大の栄誉で、発見が自分だけなら独り占めですが、有望な金鉱脈を
 複数人が発見した場合に、これを巡って”争い”が起きるのが西部劇の定番。



  「焼け」

 地表部に露出している「露頭」が長年月に酸化したもので、鉱床の酸化帯。
 硫化鉱物は酸化され、褐鉄鉱になり赤茶色に変色し”焼けた”ような色合いになります。
 この「焼け」はかなり遠くからでも目視でき、最も解かり易い鉱床の目印です。

 一般的に風化から残った、尖った「焼け」は鉱脈の場合が多く、平面でやや窪んだ「焼け」は
 塊状鉱床の可能性が有り、後者のほうが鉱床規模が大きい傾向があります。



〜鉱山のおもしろ話⑥-戦前は同じ金かけるなら探鉱よりも採鉱?ー実は大事な”探鉱”〜

 戦前のあるメタルマイン(金属鉱山)の話です。ある人が偶然に鉱脈を発見。
 その鉱山は発展し、村には映画館ができるくらい繁栄しました。ところがその鉱山主、
 儲けた金は鉱山に投資をせずに全て自分が贅沢することに使いました。
 その鉱山は見える範囲の鉱脈を樋押しするだけなので、やがて鉱脈は途切れます。
 鉱山主はあせって坑道を掘り進めますが、手持ち資金がたちまち尽き破産へ・・・

     ~ここまではかつて全国各地であった出来事です~

 その鉱山を安く買い取った某鉱山会社、放棄された坑道のすぐ先に新鉱脈を発見。
 その周囲を探鉱してボナンザも当てその鉱山は再び繁栄しました。

 昔から”鉱山(ヤマ)の稼ぎはヤマに戻せ”と言われています。

 資金に余裕の有る繁栄期に探鉱に努めよという教訓ですね。

 金丸鉱山のページで鉱山は「減耗資産」を対象としていると書きました。
 採鉱をすると次第に”資産が減耗する”ため積極的に探鉱して減耗分を回復しないと鉱山は老化します。
 このことは昔も今も同じ認識なのですが、採鉱も探鉱も地中を掘るという行為に変わりはありません。
 そこで戦前は同じ金かけるなら探鉱よりも採鉱という考えが業界では一般的でした。

 探査技術も今よりも進んでいなかったので労多くして実り少ない”作業だったからです。

 特に中小鉱山はそうでした。過大な投資をし、選鉱所は勿論、精錬所まで設け、最初は高品位だった鉱脈も、
 断層などで途切れたり、低品位鉱に変わったりで、会社が傾くほどの大損害を被ることが多々有りました。

 鉱山跡に行くと「なんでこんな小さい鉱山に大規模な施設や精錬所まで作ったのだろう??」という場所が有ります。
 後世の我々はこの鉱山の寿命が短いのを知っていますが、当時の関係者は繁栄を信じて設備投資をしたのです。

 戦後は米国の技術者、学者の助言、指導があり探鉱の重要性が鉱業界の常識になり、
 進歩した物理・化学探鉱や海外の試錐技術の導入などにより、資本力の有る大鉱山を中心に探鉱が進められ
 各所で次々と新鉱床が発見され、数十年採鉱して老化した鉱山が、探鉱の成果により若返りました。

 限られた鉱区内にもともと鉱床が存在しない場合もあるので、いくら探鉱しても無駄では?という考えも有りましたが、
 たとえ探鉱で新鉱床が獲得できなくても、今開発してる鉱床の真の価値を知ることができ、

 稼行価値が無いという事実を確認することにより、鉱山施設、インフラなどの無駄な投資を抑えることができます。
 
 昭和後期~平成期には、中小企業には通商産業省の探鉱補助金制度が利用できました。

 国主導の探査では金属鉱業事業団による広域探査なども有り、新鉱床の発見、鉱山開発の成果をあげました。
   

~探鉱の用語~



「トレンチ」

 トレンチとは”塹壕”つまり地面に細長い溝を何本か掘って、鉱脈の幅や走向、延長方向を確認します。
 一般的に幅は1~2m、深さは1~2m程度ですが地表下の岩盤に到達するまでさらに深く掘る場合もあります。

 鉱床が地表に近い、露天掘りの鉱山の周辺にはあちこちに”モグラの穴”のようにトレンチが掘られていて、
 私的には「鉱山に来た!」とテンションMax!何故か血が騒ぎます。

 以前、韓国の蝋石・明礬鉱山に行った際に新しいトレンチと、かなり古く、長~いトレンチが無数に掘られていました。
 現地の人に聞いたら新しいトレンチは”探鉱”のために、古いトレンチは「朝鮮戦争」の際に掘られた本当の”塹壕”でした。

 「朝鮮戦争」は朝鮮半島の南から北まで戦線が移動しましたが、こんな朝鮮半島南端の山奥までが前線になり、
 ”南”と”北”がこの”塹壕”で対峙したかと思うとかなり衝撃でした。



「ピット」

 ピットとは竪穴、”タコ壺”とも呼ばれます。鉱床の存在しそうな場所に、鉱床にぶつかるまで穴を掘ります。
 梯子をかけるので一般的に丸型ではなく長方形の穴を掘ります。あまり深いと湧水があるのでせいぜい10m以内です。
 なにしろ手作業なので、硬い岩盤にぶつかった場合は手掘りには限界があり、
 無理をせず試錐に変更したほうが、能率も上がり、費用対効果、保安面からも試錐のほうが優位です。
 

「立入(たていれ)坑道」

 探鉱のために掘進される坑道のこと。
 昔は試錐(ボーリング)の道具が大型で、山奥への運搬が困難だったために坑道を掘りましたが、
 坑道掘進はかなりの費用と時間がかかります。
 戦後は試錐技術も進歩し、トラック、ダンプ等の運搬機械も普及したので、試錐に変わりました。
     

〜鉱山のおもしろ話⑦-中小鉱山の味方の探鉱方?トレンチ探鉱、ピット探鉱〜

 探鉱にはいろんな方法がありますが、山野を歩いて露頭を発見したり、沢を探索する”転石探鉱”などは
 昔から行われているお金のかからない方法です。
 スコップ、つるはしで出来るトレンチ探鉱、ピット探鉱も規模によっては比較的簡単な探査方法です。
 各地の鉱山跡で草に覆われた”溝のような地形”を良く目にしますが多くはトレンチ探鉱跡です。

 金丸鉱山近くのウラン鉱徴地にはかなり大きなトレンチ探鉱跡が有ります。

 事業者は「原子燃料公社(現・動力炉・核燃料開発事業団)」
 当時の我が国が核燃料にかける意気込みが伝わって来ます。

 昔は資本力の有る大鉱山の場合は、所謂”スコップ土方”を数十人~百人規模で雇い入れ、
 樹木を伐採した後に人海戦術で”今日はこの谷、明日はあの尾根”といった具合に、
 目の届く限りの地表にトレンチを掘ります。
 山肌はすっかりはげ山になり、治水が~!!自然環境が~!!と今なら大問題になりそうですが、
 明治~戦前まではおおらかな時代、基幹産業の鉱業に文句を言う人もいなかったのでしょう。
 私は聞いた話から想像するだけですが、山肌に大勢の人が取り付き一斉に作業する光景はさぞかし壮観だと思います。

 このシーン、誰か、映画かドラマで再現してくれないですかね?需要ないか・・・
 

~選鉱関係の用語~



「粗鉱」「精鉱」

 地中から掘り出しただけの鉱石を「粗鉱」、このままでは不純物を含むので選鉱して、
 「精鉱」にして出荷されます。
 この精錬所に送られる鉱石はかつては「鉑(はく)」とも呼ばれていました。
 鉱石を精錬所に送ることを「荷下げ」といいます。


「片刃」「ずり」「尾鉱」

 選鉱途中の未だ鉱石と石の混じったものを「片刃」と言います。
 金属価格が高い時は「片刃」はもう一度選鉱され利用されます。石などの不純物は「尾鉱」として捨てられ、
 これら「片刃」と「尾鉱」の混ざったものや、鉱山からの廃石が「ずり」です。
 「ずり」には鉱石がかなり残っているうえに、適度なサイズに砕かれているため鉱物採集の良いフィールドです。
 金属価格がさらに高騰するか、技術革新により「ずり」が再び利用されることがあります。
 佐渡金山では江戸時代に捨てられた「ずり」から浮遊選鉱により再び”金”を回収しました。


   

〜鉱山のおもしろ話⑧-鉱業界の革命!火薬と浮遊選鉱

 採鉱における革命は、19世紀に発明されたダイナマイトを主とする「火薬類」を使って
 硬い岩盤を大量に破砕することです。これにより金属が安価で大量に利用できるようになり、
 ”貴族・王族のための金属”から”庶民も利用できる金属”へと価値が大きく変化しました。

 もう一つの革命は同じ19世紀の後半に発明された「浮遊選鉱」で選鉱に驚異的な回収率を実現しました。

 これは”石は水に馴染みやすく、鉱物(特に硫化鉱物)は水をはじきやすい”という性質を利用したものです。

 鉱石を細かく砕き、これを”界面活性剤”の水溶液に入れ、空気を送りながら攪拌すると大量に発生した”
 の表面に鉱石だけ付着し、石は下に沈みます。硫化鉱物には特に有効です。
 初期の頃は水と油の混合液に鉱石を、次第に空気を送り込んで気泡を発生させるようになり、立ちを良くするため、
 界面活性剤(洗剤の主成分)を加えるようになり、今では鉱物毎に様々な薬品の組み合わせで実収率は飛躍的にアップ。
 戦後は界面活性剤の研究が進み、様々な界面活性剤が作られ各地の鉱山で実収率の向上が進められ、
 神岡鉱山の場合、亜鉛選鉱実収率は1920年代には60%だったのが、1950年代には95%まで向上しました。
 
 この「浮遊選鉱」のきっかけは諸説ありますが、”界面活性剤”と””を用いる方法は、米国の女性地質学者が
 採取した鉱石を洗剤で洗っていたところ、の表面に砕けた鉱石の粒が集まるのを見て閃いたとか。
 もう一つ聞いた話では、鉱山労働者の妻が夫の作業着を洗濯していて、やはり洗剤の泡に鉱物の粉が付着するのを見て思いついたというのも有ります。
 この発明で20世紀は金属の効率的な採取と大量消費が可能になりました。

 その一方で、地中に大量に存在する珪酸塩鉱物は有用金属の分離が困難で、粉砕した鉱石を直接精錬しています。
 この過程で無駄なエネルギーを使っていて、コストは硫化鉱物の数百倍も高くなり、精錬の前処理に、珪酸塩から
 金属を効率良く分離する選鉱技術の確立が次の革命と思われます。

 採鉱では薬液を使って鉱石から直接、有用金属を抽出する「リーチング」が、金鉱石には活性炭や樹脂で
 金を採取する方法(CIPなど)が各地で行われていて、低品位鉱の利用が進んでいます。


 

~精錬関係の用語~



「床屋、吹屋」「吹く」

 鉱石を精錬することを「吹く」と表現します。  精錬所は「床屋」または「吹屋」といいます。
 岡山県には「吹屋」という地名が今も在り、かつては「弁柄(べんがら)」の産地でした。


「鉑(はく)」「湯」「鍰(カラミ)」

 精錬所で鉱石は昔は「鉑(はく)」言いました。鉱石が溶けたものが「湯」、
 「湯」の上に浮かんだ、有用金属を取り出した後のカスが「カラミ(スラグ、鉱滓)」です。
 


鉱山のおもしろ話⑨-金属鉱床発見の手がかり"ヘビノネゴザ"

 ヘビノネゴザ又は金山草(かなやまそう)呼ばれるシダ植物は、他の植物が生育できない、酸性が強くて、
 高濃度の重金属に汚染された貧養分の土壌を好んで生育します。
 鉱山跡を歩いていて、銅の二次鉱物で青緑色に変色した”ズリ”の上や選鉱場跡に、
 このシダだけが繁茂しているのを見ると「よくもまあこんな環境に・・・」と感心します。
 このシダの見分け方は、とにかく他の植物が全く生育しない場所に、群生していることと、
 悪環境にひねくれたように、葉の先がやや曲がっています。
 このヘビノネゴザを鉱床探査に使うという考えは古くから有り、
 実際、鉱山師がこのシダを目印に山野を歩き回っていました。

 これを科学的、組織的に検証するため金属鉱業事業団では、1980年代から”植物地化学探査”を行いました。

 ヘビノネゴザに限らず、いろんな植物中の、特にを分析することにより、
 新たな鉱床を発見しようという試みです。
 植物中の極めて微量のを測定するには、放射化分析法を使います。
 その結果、判ったことは、青森県恐山ではナナカマド、チシマザサに、鹿児島県菱刈鉱山周辺では、
 ヤブムラサキ、イヌビワ、ウラジロにそれぞれの農集が見られました。

 特に”ヤブムラサキ”にはが多量に濃縮され、金鉱脈の存在場所を示す手がかりになるのでは?
 と期待されています。
 ただこの”ヤブムラサキ”、分布域が宮城県以南の温暖な地域にしか分布しないことと、
 見た目ではを濃縮しているか判らないので、有望な地域の山野を回り、
 あちこちに生育している”ヤブムラサキ”を採集して、放射化分析法を行うのは、
 個人や中小の事業者にはかなりハードルが高くて現実的ではありません。
 私達が金属鉱脈を植物で探す場合、やはり昔も今もヘビノネゴザを頼りに山野を踏査するしかなさそうです。
 個人探鉱の場合、他に頼りにするものとして江戸時代と比べて進歩したのは「地形図」、
 「地質図」が作製されたことと、さらに近年ではネット、GPSが使えるようになったこと位?
   
   

鉱山のおもしろ話⑩-当たれば一獲千金!"鉱山成金"

 人跡未踏の山野を歩いて有望な鉱床を発見し、鉱区を設定、開発、生産も順調に進み、莫大な富を得た人達を"鉱山成金"呼びます。
 鉱業黎明期の明治初期から、第一次世界大戦終結の大正期までが、その方達の主な活躍時期でした。

 富国強兵に邁進した明治期の九州には”炭鉱成金”が続々と誕生。そのスケールの大きさと逸話はけた違いです。
 屋敷の近くで商売を営む女性に惚れ、逢いに行くのに、途中の小山が邪魔になり、自身の経営する炭鉱から
 掘削機械を運び込み、トンネルを掘らせた”炭鉱王”。
 別の”炭鉱王”は社業が順調で、政治に関心が向き、国会議員に立候補し当選。
 上京する際に、無事東京に着いたことを知らせる電報が「ワレ チャクタン(着炭・炭層に当たること)ス」。
 今でも福岡県を中心に”炭鉱王”の豪華絢爛な邸宅や庭園が残され観光名所になっています。
 ”炭鉱王”の幾人かは、石炭から他業種への転換を進め、その子孫は現在でも、有名な大企業を経営されています。

 その後の石炭から石油へのエネルギー転換の際にも、新潟県の産油地では”石油王”が誕生します。
 坂口安吾の小説に登場する”石油王”の豪華な邸宅と庭園はやはり観光名所に、
 世界初の海底油田の開発、操業に成功した”石油王”は、現在も続く、日本を代表する大企業に育て上げました。

 北海道では砂金の”ゴールドラッシュ”、砂白金の”プラチナラッシュ”が起き、上川地方の名寄町には、
 地元の銀行で現金が足りなくなり、日本銀行名寄支店が開設される程賑わいました。

 京阪神工業地帯に近い京都府、兵庫県の丹波地方には、多くのマンガン鉱床が在り、
 当時、特殊鋼や電池に使われるマンガンの需要が急増、多くの"マンガン成金"が誕生しました。
 首都圏に近い群馬県、栃木県でも旺盛なマンガン需要で、マンガンブームが起きて、
 こちらでも"マンガン成金"が誕生しました。
 "硫酸生産量は産業発展のバロメーター"と言われたのもこの頃で、原料の硫黄は「黄色いダイヤ」と
 もてはやされ、火山国の我が国では多数の鉱床が開発され"硫黄成金"が誕生しました。

 やがて地表部の見つけ易い鉱床は発見し尽くされ、探鉱と鉱山開発に莫大な資本が必要になってくると、
 鉱山開発は大手鉱山会社が行うようになります。

 昭和前期は、戦争に伴う需要の増大で、探鉱が盛んに行われ、採算の取れないような、小規模、低品位の鉱床
 まで、国家の支援により開発が行われましたが、戦後は一転して経済性が重視されるようになります。
 昭和30年代に広島県福山市の"甲山鉱山"の成功例とかありましたが、
 多くの個人探鉱家は鳴かず飛ばずの時代がしばらく続き、
 「今頃、地表に見える鉱脈で一獲千金なんて・・」という認識が、個人にも企業にも定着しました。
 ところが、1974年(昭和49年)になり、兵庫県赤穂市で極めて高品位の金鉱脈が発見されたのです。

 有名な鉱物の入門書には「この金山は数年前に彗星のように浮上した」と形容されています。

 この鉱山の所有者は窯業原料の「ろう石」を採鉱していましたが、
 かねてから「ろう石」の表面に見える金色に輝く鉱物に興味を持っていました。
 鉱山を時折訪れる地質、鉱山関係者に相談しても「それは黄鉄鉱です。ろう石鉱床には付き物なんですよ。」との返事。
 専門家は鉱石を見せられても、「肉眼で見える自然金がここに在るわけがない」と思い込んでいたのです。
 それからしばらく経って鉱山の調査に来た鉱山技師の勧めで、鉱業権者がその鉱石を分析機関に出したところ、
 金が数十g/t、銀が数百g/tと、驚く程の高品位鉱石だったのです。
 その後、鉱業権者は赤穂市の高額納税者に躍り出ましたが、この鉱山は或る事情でも有名になりました。
 この鉱山は1960年から採鉱していましたが、金鉱石を含む珪石質の「ろう石」は、露天採掘の対象にならず捨て置かれていました。
 やがて”農薬用DLクレイ(農薬の増量剤)”の原料として、窯業原料よりも安い値段で大量に採掘、売鉱されてしまいました。
 の存在が判明しても後の祭り。鉱業権者の無念さは如何ばかりか・・
 地質、鉱山の専門家への不信感を抱くようになったと聞きました。
 このモンスター級の金鉱脈は下部が断層で途切れていて、惜しくも1984年に閉山しました。

 "まさに"彗星のように現れ、僅か10年で消えた金山です。"

 ところで、産業技術総合研究所が2016年に発表した調査では、この地域は赤穂市を中心に
 東西21km,南北16kmの国内最大級のカルデラだそうです。

 一般的に鉱床はカルデラの縁に賦存することが知られていますが、
 西の縁には岡山県備前市三石の「ろう石鉱床地帯」があります。

 私の先輩で岡山県柵原鉱山に勤めていた方は、休日になると備前市周辺に金鉱床を個人で探しに行っていました。
 その方の夢は「坂越大泊鉱山級の大金山をもう一度発見したい!必ずこの地域に在るはず!」でした。
 当時は平成の初め頃で、上記、産業技術総合研究所の調査は行われておらず、
 先輩がどういう確信を持って、この地域を探鉱していたのかは今となっては解かりませんが、
 残念ながら、その先輩は柵原鉱山の閉山に伴い、夢半ばで岡山県を離れてしまいました。

 銅などに伴う金、銀鉱床の露頭は硫化物の酸化による、所謂、"焼け"で発見が容易ですが、
 金、銀だけの単純な鉱床の多くは、白い珪石を分析する他はなく、
 もしかしたら先人達が見逃した鉱脈が、まだ在るかもしれません。
 ”探鉱するなら、カルデラの縁を探せ!”ですので、
 金山がまだこの地域に見つかるかもしれない、夢多き話です。
     
   


鉱山のおもしろ話⑪-鉱物の鑑定法はいろいろあれど、通は"味を見る"

 鉱物の鑑定法には"モース硬度"、劈開"、"鉱物の外観色と光沢、条痕色"、"比重"などいろいろありますが、
 "味"で見分ける方法もあります。水溶性のナトリウム、カリウムなどの塩化物は、当然ながら塩辛い味、
 それらの硝酸塩(チリ硝石として有名)は酸っぱい味で、他には硫酸マグネシウムは苦み、
 硼酸塩は塩味、苦味で容易に判別できますが、残念ながらこれらの鉱物は気象的、地質的条件で
 日本では産しないので、実践する機会はあまりありません。
 日本で産する鉱物類では、本によればある種の硫化鉱物は酸味、緑礬は苦味、胆礬は刺激のある酸味、
 砒素鉱物は甘い味だそうで、これだけは絶対口にしたくない毒物です。
 他には明礬石が渋みとやや甘味(職場の大先輩曰く、渋柿の味だそうで、熟練者は品位まで判るとか・・)らしく、
 私はこれにはトライしましたが、未熟者故に残念ながら葉蝋石との区別は出来ませんでした。

 味とは違いますが、同じく口に入れて調べるのがカオリナイトなどの粘土鉱物や、
 "ゼオライト(沸石)"という鉱物、
 これらの鉱物は多孔質で、吸着性を見分けるために"舌"を当てると"舌"に吸い付きます。

 この"ゼオライト(沸石)"、脱臭効果、水質浄化、土壌改良、吸水、物質の吸着などの効果があり、
 ペットのトイレ砂、園芸用土、公害防止、浄水装置、養魚、家畜用などに大量に使用されています。
 我が国にも良質で大規模な鉱床が全国に存在し、バブル期の頃から平成の初期にかけて
 "万能鉱物"として過剰に期待され、大ブームを起こしました。
 同時期に流行った"トルマリン""遠赤外線"などと併せた"革命的"な商品まで現れ、
 その謳い文句は「室内に置くだけで、空気を清浄化しマイナスイオンで癒しと健康増進の効果」
 似非科学でも、とにかく作れば売れる、なんでも有りの、世はまさにカオス状態でした。
 当然ながら"ゼオライト(沸石)"を採掘、加工、販売する業者が乱立。
 バブル期ということもあり、鉱床の存在する土地の売買価格が、ン十億円?などの噂が業界を駆け巡りました。

 実はこの"ゼオライト(沸石)"、良質で大規模な鉱床がかなり存在する上に、鉱石価格が比較的安いのです。
 ブームは一過性のものに終わりましたが、実際に有益な性質を持つ"ゼオライト(沸石)"
 現在は需要に見合った規模の採掘、販売が行われ、私達の社会の多方面で利用されています。

 さてこの"ゼオライトブーム"が起きた平成の初期に、ゼオライト鉱床の調査に行ったことが有ります。
 新潟県、福島県、山形県の県境付近には多くの、良質なゼオライト鉱床が賦存しています。
 この頃、奥会津の土地の所有者が調査を依頼してきたのです。
 鉱山調査で欠かせないのは「鉱石のサンプリング」です。
 案内された露頭から、ハンマーで鉱石を採集、或いは転石を拾い、すかさず「舌を当てます」

 実はこの"ゼオライト(沸石)"、良質の物ほど吸着性が高くて、良く舌に吸い付くのです。

 私のこの行動に、土地の所有者が"ドン引き"したのが直ぐに判りましたが、そのまま調査を続行、

 次々と露頭やガレ場の転石で石を拾っては「舌を当てる」をひたすら繰り返します。

 最初は「自分の持ち山が億単位で売れる・・」と上機嫌で、饒舌だった土地の所有者、
 小一時間も過ぎた頃には寡黙になり、心なしか歩く時も、私との距離が最初よりも遠くなったようです。
 別れ際に会津訛りで「あんたみたいな変わった人は始めて見た」と言われたのを今でも覚えています。

 現地では"ゼオライト(沸石)"の簡単な評価法として、「舌を当てる」という極めてアナログな方法で
 変人扱いされた不肖私ですが、時は繁栄を極めた20世紀末、技術立国日本に生きる私としては、
 誇りにかけても持ち帰ったサンプルは科学的に測定します。

 "ゼオライト(沸石)"はマイナスに帯電していて、陽イオンを引き付ける能力が有り、
 それを数値化したのが陽イオン交換容量(CEC:Cation Exchange Capacity)です。

 残念ながら調査場所には稼行対象になる良質のゼオライト鉱床は有りませんでした。

 有名な鉱物の入門書には「石をなめたり口の中に入れたりするようになると、
 その人の趣味もよほど病膏肓の部類に入った証拠で、家人もあきらめたほうがいい。」と書かれています。

 鉱山の仕事から離れてからずっと「石を舐める」行為はしていませんが、
 このゼオライト鉱床の調査は、地質的に有望な地域であるにも関わらず、
 期待の良質なゼオライトが見つからなかったことで、今でも"苦い思い出"です。
     
   
鉱山のおもしろ話⑫-私の出会った"平成の鉱山師"

 平成の末頃からネット販売やミネラルショップに多く出回った"かぐや姫水晶"
 流紋岩のノジュール内部に小さな紫水晶がちょこんと納まっています。
 素晴らしいネーミングと愛らしさで、たちまち人気鉱物になりました。
 実は私、この"かぐや姫水晶"と昭和63年に出会っているのです。
 関東北部の鉱山に勤務していた頃に、良く訪れる鉱山師のKさんから見せられたのです。
 当時の鉱業界は、プラザ合意による1985年からの急激な円高の進行により、
 鉱床規模と品位の劣る殆どの金属鉱山は国際的競争力を失い、閉山が相次いでいました。

 かなり前からこの国では、主要産業が鉱業、重工業から、軽・精密機械、バイオ、IT等への流れは進んでいました。
 加えて世はバブル景気、資産家達の関心は"夢多き"或いは"博打のような"の鉱区への投資ではなく、
 当時は"確実に儲かる"とされた不動産、株へ。

 当然ながら全国の鉱山師も転職?商売替え?或いは取り扱い商品替え?を余儀なくされます。
 それでも「金」にこだわる原理主義的鉱山師もいたのでしょうが、殆どが「絶滅危惧種」になってしまいました。

 一方の非金属鉱山は、バブル期の大規模な公共事業、設備投資、建設ラッシュによる
 旺盛な国内需要に支えられ、セメント(石灰石)業界は史上空前の好景気。
 土木事業に伴う試錐、シールド工法に用いる、「ベントナイト」は国内産ではとうてい足りず、
 鉱床探査、鉱山開発が進められ、輸入もされていました。
 外壁材として軽量、断熱、遮音、耐久性に優れている「ALC」は、国内各地で製造工場が作られ、
 原料の「珪石」の需要が急増、全国で「珪石」の増産、鉱山の新規開発が行われました。
 同じく「建材」として用いられる、「パーライト(真珠岩)」も国内資源開発が進みました。
 脱臭、水質浄化、土壌改良、物質の吸着などの効果がある"ゼオライト(沸石)"は大ブーム。

 新時代の鉱山師が生き残りをかけ、目を付けたのはこれらの「非金属鉱物」です。

 鉱山師のKさんが持ち込むのは主に「ゼオライト」と「珪石」、「ろう石」。
 そうです、鉱山師のKさんは「鉱種変更」に打って出たのです。
 元々は金属鉱脈を探し、鉱区の売り込みをしていた方なので、これらの鉱物も身近だったのでしょう。
 Kさんは地元の方ということもあり、無下に扱うわけにもいかず、持ち込まれた鉱石は分析室に回されます。
 持ち込んだ鉱石の採集場所は、分析結果が有望だと絶対に教えない鉱山師のKさん。

 ある日Kさんが「面白い石が有る」と言って見せてくれたのが"かぐや姫水晶"だったのです!!

 この"かぐや姫水晶"は鉱山の稼行対象にならない流紋岩。Kさんはそれを解かっていて分析依頼も無しですが、
 この石は珍しくて、綺麗なので皆に見せるために持って来たのだとか。

 場所は「奥会津」とだけ教えてくれました。

 鉱山の仕事を辞めてからずいぶんと経ちますが、ネットであの"かぐや姫水晶"を見るたびに鉱山師のKさんを思い出すのです。
 と、同時に「金鉱山への投資」を呼びかける一部の怪しげなサイト(真面目なサイトも有るのでしょうが・・)を見ると、鉱山師の手口の進化を感じます。

 急速に進んだネットの普及と発達で、手軽に誰でも鉱物採集品を売買する事ができる時代になりました。
 便利になった一方で"負"の側面として、水晶といえば日本式双晶の某産地では、テントを張って泊りがけで採集した人がいたらしくて、
 その後、大量に市場に出回り、その産地は採集禁止となりましたが、時すでに遅く、その前に絶産となっていたそうです。
 全国の有名鉱物産地で似たような事例が相次ぎ、殆どの場所が「立ち入り禁止」。
 新たに産地を”開発”しないと採集もできないような時代になりました。
 "かぐや姫水晶"の産地は今はどうなっているのでしょうか・・・

 ふと思うんです、時代の変化に敏感な鉱山師のKさん。
 鉱山師Kさんがネットという新たなアイテムを手に入れ、あの"かぐや姫水晶"を売りに出し、世に知れた?
 まさか、Kさんの年齢的にそんなことはないだろうな~と思いつつも、子供達が協力すれば充分に可能かも・・・
 鉱山師Kさんの活躍を、どこかで期待していた私です。
   
   

鉱山のおもしろ話⑬-真面目に探鉱した人に"鉱山(ヤマ)の神"が微笑んだ!?

 1950年代後期~1960年代にかけて、広島県福山市で稼行された、"甲山鉱山"は金と銀鉱石を採鉱していました。

 ここの鉱脈発見の経緯は、正に"コツコツと探鉱の努力をする者に"鉱山の神"が微笑む"です。

 鉱業権者Mさんの本業は農業。
 Mさんが卒業された小学校OBに、鉱山で成功し、母校に寄付をした方が居て、
 先生が事あるごとにその話をするので、鉱物に興味を持つようになり、
 「自分も鉱山で成功して、地域の発展に貢献したい」と考えるようになったとか。

 この時点では"鉱山の神"はMさんに時折、おぼろげな姿を見せる程度です。

 同じ広島県下の庄原市に勝光山という「ろう石」の産地で有名な地域があり、
 そこでの鉱業の隆盛を見て、Mさんは「ろう石」に関心を持つようになり、
 戦後間もなくの昭和20年代に、石灰石、珪石、ろう石などの鉱物を探鉱していたそうです。
 これらの鉱物は採鉱、選鉱、など金属鉱物と比べて比較的簡単で、資本もさほど必要としない上に、需要が急増していたのです。

 Mさんは農業の傍ら、"耳学問"で得た知識で、探鉱だけではなく、これらの鉱石を選鉱する実験や、焼いたりして利用法も研究していました。
 どっぷりと「ろう石」にハマり「この付近に白い石はないか?」とあちらこちらで聞いていたMさん。
 銅、鉛、亜鉛の金属鉱物を探す人は大勢居ても、Mさんは真逆の「白い石」を探していたのです。

 この時、かなり遠くに見え隠れしていた"鉱山の神"がMさんに関心を持ちました。

 昭和28年、Mさんは近くに開校したばかりの小学校の校庭に白い石英脈が在る事を知ります。
 今まで非金属鉱物にこだわっていたMさんですが、ここで「石英=含金」と閃きました。

 Mさんは直ぐに行動に出ました。校庭の石英を採集し、広島造幣局に分析に出したのです。

 ここで、走って追いついて来たMさんに"鉱山の神"が振り向きました。

 Mさんの直感?ヤマ感?は的中!分析結果は1tあたり3gの金を含む”低品位の金鉱石”と判ったのです。

 1tあたり10g~20g金を含んでいないと、鉱山として稼行価値は無く、多くの人はここで諦めてしまいます。
 ところがMさん、この結果に、逆に自信を深め、それから数年間、付近をくまなく探鉱し、
 あちらこちらの石英脈から数十個の石英を採集、再び広島造幣局に分析に出しました。

 その中に、なんと117g/tと78g/tの"高品位の金鉱石"が有ったのです!!

 ついに"鉱山の神"が微笑んだ瞬間"です。

 Mさんは、昭和38年に試掘権を出願、当時の広島県の鉱業関係者は、最初はこの発見に半信半疑でしたが、

 Mさんはさらに探鉱を進め、新たな含金石英脈を発見!ついに"甲山鉱山"が誕生しました。

 あるサイトには"この石英脈北側に金属鉱山が在り、そこの鉱業権が切れる昭和38年まで待ってから登録した"
 と書かれていて、最初の含金石英の発見から、試掘権の出願まで、10年かかったのも腑に落ちます。

 この付近は、古生層中への花崗岩体の貫入により、銅、鉛、亜鉛の小規模な金属鉱床が数多く存在していて、
 鉱山が稼行されていましたが、この地域の石英脈には誰もが関心を寄せていませんでした。
 「ここの石英に金があるわけない」と考えていたからです。
 実際にMさんが発見した含金銀石英には、自然金が肉眼で見える物は少なかったのです。

 ということは、この地域の石英脈は、過去の探鉱の際に"見落とされた"可能性がある?

 その頃には、県下の鉱山、地質関係者は、この地域に殺到し、時ならぬ「金鉱石探し」が起きました。

 当時の地質関係の文献には「広島県下の小さなゴールドラッシュ」と形容されています。

 だけど、後から金鉱石探しに参入した人達には、"鉱山の神"は微笑えまなかったようです。

 古来より鉱山師、鉱山関係者以外の人が、転石などから偶然に鉱床を発見する事例は多々有りました。
 明治の鉱業黎明期には多くの人達が鉱業に関心を持ち、次々と鉱床が発見され、鉱山が多数開発されましたが、
 この"甲山鉱山"の話は、昭和30年代に、市街地からさほど遠くない地域で、自ら熱心に探鉱を行い、
 新たに鉱山を開発した稀有の出来事で、「探鉱学の教科書」に載せても良いような、"サクセスストーリー"です。

 この"甲山鉱山"の開発から程なくして、同じ瀬戸内の「坂越大泊鉱山」が彗星の如く登場します。

 水害の補償で窮地に陥った鉱業権者に、予てから寄り添っていた"鉱山の神"が「鉱山のピンチを救います」

 "モンスター級の金鉱石"を産出した「坂越大泊鉱山」は、金鉱石の存在に気付いていながら、
 鉱業権者はのような投機的な鉱産物にどちらかというと冷静で、直ぐに開発に着手しませんでした。
 水害の補償で大金が必要になり、慎重に探鉱した後にようやく開発に着手したのです。
 一部の金鉱石は農薬用クレーの原料として既に売鉱されてはいたものの、露頭から海面下まで延びる富鉱体を捕捉、
 鉱山開発が佳境に入った頃にはさらに金価格が高騰、充分な鉱利を得ました。

 当時、小規模なろう石、珪石鉱山の多くは、個人或いは中小の会社が経営していて、この成功例に刺激され、
 我も我もと自山の石英脈に期待をかけましたが、
 残念ながら"鉱山の神"はこれらの方達には微笑えまなかったようです。

 "鉱山の神"は気まぐれで、人を翻弄し、時には優しくも、恐ろしい、人智を越えた存在でもあるようです。

 
鉱山のおもしろ話⑭-鉱物の神様が降臨する時!!〜

  昭和60年代、栃木県今市市(現日光市)には、カオリナイト、セリサイト、パイロフィライト等の鉱山が多く在りました。
 その頃、大貫鉱山では日本では初の燐酸塩鉱物が産出し、鉱物学会、愛好家の間で話題になりました。

 ところで、ネットや本に書いてある「フバサミクレー鉱山」は誤りです。
 フバサミ(文挟)は地名、クレーは粘土、フバサミクレー㈱大貫鉱山が正式名称です。
 最初の鉱業権者が大貫さんという方だったのです。


 さて、この大貫鉱山、私の勤務先の鉱山とは違うけど、同じ会社なので月一程度は来ていました。
 或る日、大貫鉱山の事務所で所長のHさんと話をしていると、後ろのテーブルに薄緑色の鉱石が置かれていました。
 「Hさん~、あの鉱石なんですか?」と私が聞くと、「あれはトルコ石、なんでも日本初で学会では話題らしいよ」
 「えー!!本当ですか?今まで何度も来ているのに・・始めて聞きました~」
 そうなんです、所長のHさん、鉱物にはあまり興味が無いのです・・・
 実は鉱山会社の殆どの社員が業務として勤めているだけで、"熱い鉱物マニア"はあまり居ないのです。

 今風に例えれば、鉄道会社に"鉄ヲタ"があまり居ないのと同じ?自衛隊に"ミリヲタ"があまり居ないのと・・・

 「そういえば、K君は鉱物が好きなんだっけ?切羽には他の鉱物もあるみたいだよ。日曜日に採りにおいで。」
 早速、日曜日に気合十分、ウッキウキで大貫鉱山に行くと駐車場に東京から来た車が・・・
 広大な露天掘りの縁から見下ろすと、ベンチカットされた採掘場の上段辺りに3人居ました。

 近づいて挨拶をすると見たことのあるような顔なのです。名刺交換をし、私はあっ!と声を上げました。
 見覚えのある顔の方は、昭和の鉱物採集のバイブル「鉱物採集フィールドガイド」の著者Kさん。
 実は私、学生時代は「鉱物情報」の同人だったのです。もう一人は上の本にも登場する国立科学博物館のK博士。

 そしてもう一人はなんと、アマチュア鉱物界の神様、櫻井欽一博士だったのです!

 降臨した"現人神"から名刺を受け取る手が震えます。
 私の緊張をよそに、櫻井欽一博士はニコニコと鉱石を手に取って説明してくれました!

 しかも「カコクセン石」、「銀星石」は自らハンマーで割って手渡してくれたのです!!

 感謝カンゲキ雨霰、欣喜雀躍、櫻井欽一博士はとても親切で優しい神様だったのです!

 この日から何度か通いました。ここの燐酸塩鉱物で特に有名なのは燐灰石です。
 いつものように採集に行くと、採掘場の中程、赤茶けた地面をスコップで掘り返しているマニアが2人。
 採集品を見せてもらうと素晴らしい燐灰石だったのです!早速、私もお仲間に。
 「H所長~なんで教えてくれなかったの~昨日も事務所で会ったよね??」と思わず恨み節。
 翌日、H所長に聞いたらこの燐灰石は知らなかった(興味無かった)ようです。
 実はこの燐灰石、後年、ネットで知ったのですが、あまりに立派な結晶なので、
 産地が荒らされるのを恐れた櫻井欽一博士が発表をためらったとか。

 やがて有名になるにつれて、マニアが押しかけるようになり、採掘作業中に勝手に切羽に侵入する"輩"が現れ、
 柵と鉄条網で囲い、「立入禁止」に・・作業中は見張り員も配置、これらは全て想定外の出費。

 万が一にも事故が発生すれば鉱山の責任です。
 鉱山保安監督局の行政指導が入り、再発防止に多額の費用が必要なのです。
 鉱物愛好家の方々本当にごめんなさい。事故の発生は中小鉱山には命取りなのです。
 しばらくは鉱山と不法侵入者とのいたちごっこが続きました。

 ここの燐灰石、立派な結晶なのですが、採掘場所の拡大に伴い早々に絶産となりました。
 月に5千トンの鉱石をベンチカットで採掘していたので、切羽が毎日移動するのです。

 それから程なくして大貫鉱山は閉山し、かつての採掘場は水を湛え、今では全ての燐酸塩鉱物は絶産となりました。

 
   
 自分の鉱山(ヤマ)での鉱物の神様の降臨はなかなか経験できないことですが、私にはもう一つ経験が有ります。

 金丸鉱山でのアマゾナイトの発見は、自分が見つけたこともあり、私にとって最大の思い出です。




 1989年当時、毎日金丸鉱山大切坑ズリの前を通り山元事務所に通っていましたが、
 ある日ズリの所々に真っ黒な廃石が有るのに気づきました。
 白い石英、肌色の長石、黄土色の細粒黒雲母花崗岩から成るズリにその黒色は目立ちました。
 細粒黒雲母花崗岩よりも明らかに色が黒く、黒雲母の集合体ともいうべきものです。
 点在するこの黒雲母塊を拾い上げると、緑色の長石が!アマゾナイトです!

 この瞬間鉱物の神様が降臨しました!!

 何故なら最初に拾い上げたのがアマゾナイトだったのです!
 我が国の他の産地では水色~青色を呈するようですが、金丸鉱山産のアマゾナイトは濃緑色を呈しています。

 私の鉱物コレクションの自慢の逸品で標本箱の中央に収まっています。

 アマゾナイト(天河石)の産地は日本ではあまり知られていませんが、
 30年以上前に採取したこのアマゾナイト(天河石)
 ネットのおかげで皆さんに知ってもらえました。
 鉱物情報サイト、文献では紹介されていないようなので、やはり"新"産地・・・と思いきや、
 2021年頃の土砂崩れで大切坑ズリが大規模に流出。
 僅かに残ったズリの上にも草木が繁茂し、今では"幻"の産地となってしまいました。

 鉱山の仕事から離れても、鉱物採集は時折続けていましたが、
 昔のように寝ても覚めても鉱物の事を想うことはなくなり、

 私にはもう鉱物の神様が降臨することは無くなりました。
 
 
 
〜鉱山のおもしろ話⑮-"オパール"に魅せられた話

 日本で宝石級の"オパール"が産したのが、福島県の新潟県境に近い、その名も"宝坂"という場所です。
 昭和63年頃に、職場の分析室で分析依頼された「パーライト(真珠岩)」を見かけました。
 この「パーライト(真珠岩)」、珪酸塩の結晶中に水分を含んでいて、加熱すると膨張し、
 「建材」として用いられています。当時は需要が急増、国内資源開発が進みました。
 分析室の「パーライト(真珠岩)」産地が福島県宝坂"屋敷鉱山"だったのです!!

 分析と試験の結果は、残念ながら膨張せず、資源的価値は無かったのですが、
 私にとっての関心はここが"オパール"産地だったことです。
 資源調査で"屋敷鉱山"を訪れたのは会津工場長のYさん。早速電話して鉱山の様子を教えてもらいました。
 嬉しいことに、工場長のYさん"屋敷鉱山"の所有者Fさんに、連絡して鉱山見学の許可を取ってくれたのです!!
 指定された日曜日にウッキウキで職場の同僚4人と"屋敷鉱山"に向かいました。
 出迎えてくれたFさん御夫妻、日曜日は来山者が多くて、私達に与えられた時間は2時間しかないとのこと。
 早速、屋敷に上げられ、産出した、"オパール"を見せられます。
 驚くほどの煌めきと色彩!!素晴らしい!の一言しか出ません。

 Fさん御夫妻から鉱山の話を伺います。
 しばらく話を聞いた後で、今から鉱山に案内すると言われテンションMax⤴
 ここでF奥様から「入山料は一人5千円。だけどあんた達は同じ会津のYさんの紹介だし、菓子折りも頂いたから、2千5百円にオマケね! 」
 4人で1万円を支払い、いざ鉱山へ。ここでまた奥様「残り時間はあと1時間だからね~頑張るんだよ~」。
 どうやらFさん御夫妻と挨拶した瞬間からカウントされているようなのです。奥様は敏腕マネージャーでした。
 鉱山に着くと早速Fさんが、母岩に埋まった球顆を割ると、見事な遊色の"オパール"が!
 仲間達とわーわー言いながら片っ端から球顆を割れども、割れども白い蛋白石しか見つからないのです。
 だけど、Fさんが「これだよ」と言って割ると"遊色"が!
 どうやらFさんは、我々素人は到底及ばない、プロの眼力を持っているようなのです。
 残り1時間弱で、いくら叩いても、"労多くして実り無し"。全て白い蛋白石です。
 ニコニコ笑って見ているFさんにはとうてい敵わないのです。
 私はここで作戦変更をしました。

 球顆を割るのを止めて、転がっている球顆をひたすら持参した土のう袋に詰め込んだのです。

 帰宅してから、改めて持ち帰った100個以上の球顆を割ると、遊色"オパール"が3個有りました!
 いろんな本ではここの"オパール"は脱水を防ぐために”水に漬けて保存”と書かれていますが、
 自宅の標本箱の"オパール"は30年以上たった今でも遊色を放っています。

 
   
 同じ頃、事務所の資料に通商産業局刊「東北の工業原料資源」という書籍が有り、
 その中に「福島県飯坂のオパール」という項目が有りました。
 そこには"試掘届が出されたが、貴蛋白石は今回の調査では見つからなかった"と書かれていました。
 退社後も気になって、訪れたのが平成の中頃。流紋岩の白っぽい岩肌が続く川沿いの崖に、一部黒っぽい部分が、
 川向に見え、ここが例の資料の場所のようです。早速、川を渡り、崖を登ると、所々に球顆が顔を覗かせています。
 "屋敷鉱山"と大きく違うのは、球顆の数が少なく、柔らくて崩れ易いのです。勿論白いのばかり。
 なにより驚いたのはあちこちにハンマーで叩いた跡が見られること。
 例のオパールの調査報告を読んで来た方が他にもいたのでしょうか?
 それとも流紋岩地域を探し回ってここに辿り着いたのか?

 "オパール"遊色に魅せられた方が他にも居たと思うと感慨深かったです。

 私を虜にした"オパール"。ネットの情報では2008年に"屋敷鉱山"は閉山したとか・・

 我が国にはなかなか宝石は見つからないのですが、この"屋敷鉱山"はまさに宝石級の煌めきを日本の地質界に放っていました。

 
 〜鉱山のおもしろ話⑯-先輩から後輩へ語り継がれた砂金産地?

  学生の頃から、鉱山関係者と話す機会が多く、"幻の砂金産地"の話は良く聞きました。
 いつも「どうして人に話さずに自分でお宝を独り占めしないの??」と思っていました。
 いろんな話を聞いた私なりの結論は、"多くが作り話か、盛っている"又は"本人がその話を信用していない"といったところでしょうか。

 信じるか信じないかはあなた次第ですが、私にもこんな話が有ります。

 「自分はもうここに行く体力が無いけど、君なら行けるかも・・・」と必ずこの前置きから始まる話です。

 Yさん、Sさんと私は鉱山会社は違えど、同じ大学の先輩、後輩の間柄。

 昭和50年代、プラザ合意による円高で鉱業界が翻弄される少し前のことです。
 某鉱山会社常務取締役Yさんは、私の上司になるSさんにこう言いました。
 「私は、今でも時々あの砂金のことを思い出す。探しに行く時間は有るが、記憶はあやふやだし、
 自分はもうここに行く体力が無いけど、君なら行けるかも・・・」と、
 地形図を渡しながらこの話をしました。

  昭和20年代、大先輩のYさんは福島県の小さな鉱山に勤務していました。
 慣れない遠隔地での暮らしと、主力の鉱山(ヤマ)では無いということから毎日を面白くなく、ヤケ気味になり過ごしていたそうです。
 ある日、Yさんに常日頃から目をかけてくれていた、その鉱山(ヤマ)の"鉱夫頭"が「遊ぶ金を稼がないか?」と言ってきたそうです。
 会社に休みを貰い、二人で向かったのは秋田県真昼岳周辺の産金地域。麓の村に宿をとり、早朝に出発。
 "鉱夫頭"の脚が速く、ついて行くのにやっとで、非常に難渋したそうです。
 殆ど川筋をひたすら直進して、滝が有ると何度か迂回して、その途中で尾根から横手の街と日本海が見えたそうです。
 それから尾根を暫く歩いて、下に降りると小さな滝が有り、そこの岩盤の上に堆積した砂金を欠きとったそうです。
 採集した砂金は軍足何本かに詰め込み下山。
 帰りはさらに疲労困憊し、砂金の入った重たい軍足を何本か捨ててしまい、麓に着いた時には2本の軍足を残すのみ。
 それでもその軍足2本の砂金は当時の金額で20万円にもなり、暫くは出社もせずに豪遊したとか。

 どうです?この話、ツッコミどころ満載ですよね。
 例えば「どうして砂金の場所を知っている人が、"鉱夫頭"として毎日仕事をしているのか?」
 「いくら疲労困憊とはいえ、採集した砂金を捨てるのは信じ難いし、後で戻って回収できるように目印を付けてデポするのでは?」
 など、いくらでも出てきます。

 一番の懸念は、唯一場所を知っている、"鉱夫頭"はいつでもこの場所に行けるので、全て採集し尽くしているのでは?とも考えられます。
 
 上司Sさんも話の内容に疑問を感じ、「どうしてYさんがそこにもう一度行かなかったのか?」と思ったそうです。
 話の中に、"横手の街と日本海が見えた"ということから、かなり標高が高いことが想像でき、よほど体力がないと無理なのは理解できます。
 "ついて行くのにやっと"ということから、途中の景色も殆ど覚えていないYさんが、
 もう一度一人ではここに辿り着けないのは容易に想像できますが、さすがに、登り始めた沢の場所は判るのではと思います。
 そこで上司Sさんが尋ねたら、「宿を出たのが日の出ない、真っ暗な早朝で、景色が見えなかった(キタ――(゚∀゚)――!!定番です)」そうで・・
 したがって、手渡された地形図には沢の位置は記されてなく、とにかく真昼岳南西斜面に大きく○で囲っているだけと聞きました。

 尊敬する先輩Yさんの話です。
 半信半疑ながらも上司Sさんは地元ということもあり、一度その産地に行ったそうですが、
 何しろ地図に記された場所が広大なうえに、山深く谷険しくて早々に断念したとか。

 平成の始め頃、鉱山の仕事にようやく慣れた私に、上司Sさんは
 「自分はもうここに行く体力が無いけど、君なら行けるかも・・・」と、この話を教えてくれました。

 聞けば聞くほど、手がかりが無い、砂金も採集済みで、既に無いかもしれない「雲をつかむ」ような話。

 平成10年代、実は私、真昼岳周辺の休廃止鉱山を調べるついでに一度トライしたのです。
 尊敬する上司Sさんの話であり、本人が私に託したのですから・・・
 その時は紅葉の真っ盛り、キノコ採りの人達が大勢山中に居ました。
 少し歩いて、その人達から離れると、周りは"熊"の出没する森林地帯。
 直ぐに砂金への執着を捨て、話に出てきたようなハードな沢登りをすることも無く、
 この時は純粋に山歩きだけを楽しみました。

 そうです、早々に断念したのです・・・

 それから、毎年のように金価格は上昇を続けました。
 令和5年現在、金価格が史上空前の高値です。

 私も年齢を重ね、金価格に反比例するかのように私の体力は衰えました。

 「私はもうここに行く体力が無いけど、若い方なら行けるかも・・・
 但し携帯も圏外だし、熊とヤマビルの常襲地域。おまけに道も無いので、自己責任で・・・」

     
   

 
 〜鉱山のおもしろ話⑱-この木なんの木"実"のなる木-"鉱山"から派生した様々な業種

  以前、"鉱山"が我が国の基幹産業だった時代が有ると書きましたが、"鉱山"が大規模になればなるほど、
 関わる人も増えて、小規模な集落から町が形成されるようになります。
 "鉱山"の多くが山奥に存在することから、"鉱山"会社も作業員を定着させる為に、
 社宅、売店、劇場、病院、保育園などの福利厚生に力を入れます。

 岩手県の松尾鉱山では、戦後間もなく、標高900mの場所に当時最新の水洗トイレ、
 全館集中暖房完備の鉄筋コンクリート造りの集合住宅が作られ人口は1万4千人に。
 学校、病院、映画館、コンサートホールを建設。
 鉱山労働者は高収入ですが、鉱山には娯楽が少ないため、コンサートはいつも大入り満員。
 このコンサートホールには人気の芸能人が、県都・盛岡よりも先に招かれたという逸話があります。
 松尾鉱山に隣接する鉱山街は、当時の盛岡の人達からは「雲上の楽園」と呼ばれました。


 更には、上下水道や電気、鉄道など、町のインフラも"鉱山"が整備するようになります。

 これらのインフラ建設が"鉱山"技術者にはお手の物だったのは容易に想像がつくと思います。

 さて、この"鉱山"技術者、他にはどんな技術を誇った方達だったのでしょうか?

 "鉱山"は、地中から鉱石を採掘し、運搬、選鉱、精錬、加工、鉱害防止を行う産業です。
 当然ながら、機械、電気、化学、などの工学と、自然を相手にする為に地質、生物などの
 理学的知識が必要で、これらの技術者が"鉱山"で必要とされます。
 鉱山経営は建値と景気に左右されるので、鉱況悪化に備えての"副業"にも力を入れるようになりますが、
 鉱山を幹とすると、そこから枝葉のように派生した業種でも、"鉱山"に集った技術者が活躍しました。

 この"副業"で手掛けた業種が、現在にも続く大企業になった例が沢山有ります。

 有名な例としてよく引き合いに出されるのが、銅精錬が祖業の旧S財閥。
 江戸時代から精錬銅を輸出し、薬品、砂糖、生糸などを扱う貿易商になります。
 四国で銅の採掘も始め、やがて両替も手掛けるようになります。
 明治になると、この四国の銅鉱山に当時最新鋭の設備、技術を欧米から導入、鉱山は更に繁栄しますが、

 面白いのはここからで、鉱山だけで終わらずに、財閥を形成します。

 銅鉱山業から、石炭を手掛けるようになり、エネルギー業へ進出。
 銅鉱山の修理工場からは産業機械を製造販売する会社を誕生させます。
 精錬の過程で発生する硫酸などから化学薬品、化学工業のメーカーが、
 銅の精錬事業から、電線と金属工業の会社が誕生。
 鉱山開発、精錬からの排煙で荒廃した山野の植林事業から林業へも進出、
 鉱山施設、社宅などの建設から建設業も始めます。
 これらは誰もが知る有名な企業になり、現在でも私達の生活に密接に関わっています。

 別の例では、茨城県日立市で銅鉱山を経営していた会社は新興財閥・N産コンツェルンを形成。
 機械製造も手掛け、世界的な自動車メーカーが誕生します。
 エネルギー関連の会社は、日本全国のガソリンスタンドで目にする大企業に成長。
 この鉱山で鉱山機械の製造・修理を行っていた工場は、モーターを製造したことから
 「この木なんの木、気になる木」で誰もが知っている、世界有数の総合電機メーカーになりました。

 鉱山を経営していた会社が直接"新会社を作った"例とはやや異なりますが、
 石川県小松市の鉱山で、鉱山機械の修理と製造を行っていた鉄工所は、
 操業の地名を冠する、世界的な建設機械メーカーになっています。

 明治から昭和半ば頃まで、我が国の経済は、”鉱山から派生した企業群”が牽引していました。

 産業構造が「重厚長大」から「軽薄短小」へと変化し、機械・電気などの製造業が
 物流、金融、建設などに進出する時代になり、やがて小売り大手が金融、サービスなどに進出。
 平成の時代になると、IT業界が金融、小売り、物流、通信などに進出するようになります。
 
 これらの業種から派生した会社は果たして、100年後も世界的な大企業に育っているのか・・・
 大いに"気(木)になる"ところです。


 〜鉱山のおもしろ話⑰-"金"の分析には"古くて新しい"黄金色に輝く"灰吹法"

  の話題が続きましたが、鉱石に含まれている""""の量を調べる"灰吹法"という分析方法があります。
 この"灰吹法"、昔は鉱石から""""を取り出す方法として行われていて、我が国には戦国時代に伝わったようです。
 近代になり、金鉱石の選鉱、精錬の技術が進み、"灰吹法"での金採収は行われなくなりましたが、
 分析法としては今でも現役で、鉱山で採掘した鉱石の含金量を鉱山会社で調べる場合や、
 含金珪酸鉱を受け入れる精錬所などで"灰吹法"が用いられています。

 私は学生時代は金の定量分析で「原子吸光分析法」を用いていましたが、鉱山会社で初めて"灰吹法"を行いました。
 JISにもあるこの"灰吹法"、最初は「ずいぶん原始的だな~」と思っていましたが、
 精錬を行っている大手金属鉱山会社の方と話す機会があり、その際「金の定量分析で抜群に感度、精度が良いのが"灰吹法"で、自山も他山も金鉱石の分析は全て"灰吹法"」と聞いて認識を改めました。
 この"灰吹法"、ざっくりと説明をすると、金鉱石を粉砕し、これに鉛を加え「骨灰」で造った皿(キューペル)に載せ、電気炉で溶かし、鉛との合金を作ることから始まります。
 そのまま電気炉で加熱を続けると、ドロドロに溶けた鉛と""""の鉱石にある変化が・・・
 溶けた酸化鉛は隙間の多い「骨灰」に吸収され易いので、やがて"キューペル"に吸い込まれ、
 """"の合金は表面張力が大きいために"キューペル"の窪みに鉛から分離した""""の塊りが残るのです。
 この輝く""""の塊りの重量と、最初の粉砕した鉱石の重量とから""の含有率を割り出します。

 この"灰吹法"が凄いのは、分析機器の数値で表れるのではなく、肉眼で""""が見えるのです!

 電気炉には小さな覗き窓が付いていて、実は私、溶けた酸化鉛が吸い込まれる瞬間を見たことが有ります。
 灼熱の炉内に並んだ幾つかの"キューペル"、勿論、ドロドロに溶けた鉛と""""の合金も"キューペル"も真っ赤です。
 突然、溶けた鉛と""""の合金の液面が急激に下がり、燦然と輝く""の粒が姿を現したではないですか!
 感動の瞬間です!
 当然ながら鉱石に、""""の含有量が多いと、燦然と輝く粒はより大きく、塊り(ナゲット)になります。
 この粒からの""と""の分離は「分金」といい、硝酸で""を溶かすか、電気分解を行います。
  昭和60年代、ある事がきっかけで"灰吹法"で含金石英の分析を行いました。
 パイロフィライト、カオリナイト、珪石を採掘し、粉砕してクレーにするS鉱山でしたが、元々は昭和の始め頃に金の採掘を終えた金鉱山。
 当時、農薬用DLクレーの原料は殆どが珪石質のろう石で、これを数千t/月採掘していたのですが、
 当然ながらここの石英脈には採算に合うかどうかは別として金が含まれているのはみんな知っていました。
 時おり銀黒とおぼしき模様が珪石に見つかります。このS鉱山の銀黒の面白いところは、「眼」のような楕円形をしていて、
 この「眼」が数多く存在する石英脈が高品位なのです。
 解かり易く例えるならば、「ゲゲゲの鬼太郎」に出てくる妖怪「目目連」に似ているのです!

 ※平成生まれの息子から「逆にさっぱり解からない」とツッコミが・・・この例え、昭和育ちの人限定のようです。

 しかも今回は銀黒が明瞭で、石英脈全体から妖怪「目目連」が睨んでいるのです。
 そこで分析室で"灰吹法"で調べることになりました。
 やはり妖怪「目目連」の場所は高品位でしたが、全体の平均品位は採算に合わないことが判りました。
 ボーリングで延長方向と深部を探りましたが、鉱量も期待できないのが確認されました。
 結局、1年も経たないうちに農薬用DLクレーの原料として全て採掘されてしまいました。
 なにしろ数千t/月採掘するので、ベンチカットの切羽が毎日前進するのです。
 現在の金価格だと採算に合ったのですが、当時はただの珪石として採掘してしまったのです・・・

 ""価格は過去に1000円/gを割り込んだこともありましたが、今、史上空前の高価格になっています。
 ""に関するニュースを見るたびに、あの日、"キューペル"上に転がって"燦然と輝いたS鉱山の""と、
 この鉱山で出会った人達のことは、私にとって最も価値の有る思い出になっていて、

 永遠不変の"のように、30年以上経った今でも、いささかも色あせることはありません。
     
   
 〜鉱山のおもしろ話⑲-鉱山会社社員、商社マン必携!「鉱産物の知識と取引」-"鉱山"から産出された鉱産物の名解説書~

  鉱山会社社員、無機原料を扱う商社マン必携の"通商産業調査会刊行「鉱産物の知識と取引」"という名著があります。
 昭和30年代に初版刊行、版を重ね、平成中頃まで書店に在りました。
 この「鉱産物の知識と取引」の凄いところは、鉱産物の産地はもとより、用途とその変遷、加工法、価格など多岐に渡って解説されているのです。
 鉱産物の種類も多岐にわたり、金属鉱物、非金属鉱物、肥料原料、陶磁器原料、耐火原料、粉末にして利用される鉱物、物理的性質を利用する鉱物等々。

 時代の変遷と共に、鉱産物の記載も変わります。あらゆる産業界で使われた、硫黄、石綿、水銀などは檜舞台から姿を消し、
 宝飾原料として記載された白金は、耐酸、不活性の性質で産業界で需要が高まり、モータリゼーションの進展で排ガス対策の触媒として重要鉱物になります。
著者の執筆意欲は80歳を越えた平成初期でも旺盛で、金丸鉱山の事務所に「新版執筆の為、貴社の長石の生産量、主な需要先を教えて頂きたい・・・」
 との封書が届き、早速、御依頼にお応えしました。平成4年改訂新版です。
 個人的には、平成4年版よりも昭和30~40年頃の旧版のほうが好きです。旧版のほうが著者の"鉱物愛"が、より擬人化されていて、想いがひしひしと伝わってくるのです。

 例えば「~は神通力を持っている」「~の人肌を思わせるような質感」「神々しいばかりの輝き」等々。

 業界での別の呼び名「タングステン鉱は東アジアに偏在し、東洋の金属とも呼ばれる」も紹介。
 「硫酸製造量は、その国の工業水準のバロメーターと言われる」などの言い回しもこの本で知りました。

 ダイヤモンドの"4C"を知ったのもこの書籍です。この知識は少し後に結婚指輪で生かされます。

 読んで抜群の面白さ!!なにしろ全編、"鉱物愛"に満ち溢れているのです!!公私共にお世話になりました。

   この素晴らしい書籍が残念なことに、現在では廃刊となり古書店で僅かに流通するのみです。

 我が国の産業は海外から原料を輸入し、加工して製品を輸出する構造でしたが、急激な円高によりこれらの工場は海外へ移転。
 しかしながら、工場が移転しても”原料を購入し、工場で製品にする”からには"鉱産物"の知識が必要不可欠の筈です。

 皆さんどうしているんですかね?メーカー、商社に鉱産物への知識とノウハウが蓄積されていてこういった書籍は不要になったのか・・
 一番考えたくないのは、鉱産物をスルーして、中間製品又は製品を購入、それに少しだけ手を加えて販売といったビジネスモデルです。

 工業立国日本の名が泣く・・とまでは言いませんが、製造現場で鉱産物に触れ合えないのは本当に残念なことです。

 私にとって工場勤務の最大の楽しみは、工場の原料ヤードに山積みされた鉱産物を見る事でした。
 国内はもとより、遠くトルコ、中国、韓国から輸入された鉱物の"匂い""輝き""形状(結晶)"に心奪われました。


 目の前の数百トンの"巨大な標本箱"に陶然となり、見飽きることはありませんでした。

                     
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